葛城稚犬養網田
経歴
編集出自の稚犬養氏は天火明命の子孫といい[1]、建多乎利命が祖であると伝わる。尾張国造(尾張氏)の祖系は葛城国造の娘を度々迎えており、「葛城」は居住地と思われる。県犬養氏・海犬養氏らと共に宮廷の護衛も担当した。
大臣の蘇我入鹿誅滅のために、葛城中大兄皇子(のちの天智天皇)に接触した中臣鎌子は皇極天皇3年(644年)1月、皇子に武勇強断で大事を図るに足る人物だとして[2]、二人の人物を推挙した。一人は佐伯連子麻呂(さえき の むらじ こまろ)であり、もう一人が葛城稚犬養連網田である[3]。
翌皇極天皇4年(645年)6月に蘇我入鹿暗殺に参加する。暗殺の場となる大極殿(大安殿、おおあんどの)で、海犬養連勝麻呂(あまのいぬかい の むらじ かつまろ)より箱にはいった剣を授けられ、「努力努力(ゆめゆめ)急須(あからさま)に斬るべし」と伝言される。子麻呂と網田は水で飯を流し込もうとしたが、緊張と恐怖で嘔吐してしまった、という。
中大兄皇子らと共に、不意に飛び出して、中大兄が入鹿の頭と肩を切り、子麻呂が一本の脚を傷つけた。網田は子麻呂と共に入鹿にとどめをさした(乙巳の変)。
或人は、皇極天皇3年6月の三首の謡歌(わざうた)のうち、三首目の和歌「小林(おばやし)に 我を引入(ひきれ)て 姧(せ)し人の 面(おもて)も知らず 家も知らずも」[4]を「子麻呂と網田の二人によって、宮中で入鹿が殺される予兆であった」と評した[5]。
以上が『書紀』における葛城稚犬養網田の登場場面であり、佐伯子麻呂とは異なり、彼の場合はその後の活躍や、乙巳の変における功労を称えられたとする記述が見あたらない。ただ、子孫とみられる稚犬養連氏は、県犬養連氏・海犬養連氏らと共に、天武天皇13年(西暦685年)に宿禰の姓を与えられている[6]。
脚注
編集関連作品
編集- テレビドラマ