花柳流
花柳流(はなやぎりゅう)は、日本舞踊の流派で、門弟は全国に約2万人を数え、五大流派の中では最大の流派。
花柳流 | |
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分類 | 日本舞踊 |
創始 | 嘉永2年(1849年)頃 |
創始者 | 花柳壽輔(西川芳次郎) |
家元 | 五代目花柳壽輔 |
門弟数 | 約2万人 |
公式サイト | http://hanayagiryu.com/ |
来歴
編集嘉永2年(1849年)初代花柳芳次郎(後の初代花柳壽輔)が創始。西川流の有能な舞踊家だった西川芳次郎が、師の四代目西川扇蔵の急死によって起きた宗家相続争いで西川流を破門されたため、新たに「花柳」と改姓し興した。「花柳芳次郎」の名前が初めて世に出たのが嘉永2年(1849年)で、この頃までに花柳流が成立したと見られる[1]。「花柳」という名称の由来には諸説あるが、通説では芳次郎が幼い頃から吉原に育ち、破門の後に一時芸妓に舞踊を教えた経験から、「花柳の廓」にちなんで付けられたということになっている[2]。
踊りの特徴について二代目市川猿之助(初代猿翁)は、「他の流派に比べて細かい間のリズムが重視され、舞よりも踊りを重視している」と解説している。
確かな技量に加えて時の芸能界や政財界のトップを後援につけ、組織を全国に発展。古典舞踊の継承と共に時代に即した新しい舞踊を次々と生み出している。
現在の宗家家元は五代目花柳壽輔。
花柳家の系図
編集初代壽輔 (初代芳次郎) | 三代目錦城斎典山 〔講談師〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
初代ツル | 二代目芳次郎 | 二代目壽輔 | 貞子 | 二代目壽楽 (青山次郎) | 喜代子 | 十三代目片岡仁左衛門 〔歌舞伎役者〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
四代目芳次郎 (芳瞠) | 三代目壽輔 | 二代目錦之輔 | 青山良彦 (花柳嶽) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
四代目壽輔 (五代目芳次郎) | 雅一 | 育子 | 三代目寿楽 | 典幸 | 寿柳貴彦 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
貴雄 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
二代目ツル | 五代目壽輔 (六代目芳次郎) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
花柳流お家騒動
編集三代目壽輔の死後、四代目壽輔を誰が襲名するかについて、三代目壽輔から家元の指名を受けたとする花柳貴彦と三代目壽輔の後見人であった五代目芳次郎との間で争いがあったが、結局、五代目芳次郎が四代目壽輔を襲名することとなった。しかし、2013年7月、四代目壽輔が、六代目芳次郎を後継者に指名した上で、2014年4月に貴彦を花柳流から除名したため、貴彦がこの除名処分の有効性をめぐって訴訟を起こした。この訴訟は「花柳流お家騒動」と呼ばれ、新聞やメディアに大きく取り上げられた。2016年5月、東京地方裁判所は、除名処分を取り消す判決を言い渡し、その判決の中で、除名処分は六代目芳次郎に家元の座を継がせるため貴彦を排除する意図をうかがわせる旨を認定した。四代壽輔側は控訴したが、2016年12月に控訴は棄却された。その後、四代壽輔側が更に最高裁に上告したが、2017年5月9日に最高裁は上告を退け、除名を無効とする判決が確定した。ただし、係争中の2016年6月に、六代目芳次郎は五代目壽輔を襲名している。一方、貴彦は、2018年5月23日、寿柳流を創流し初代家元寿柳貴彦となった。
参考文献
編集関連項目
編集外部リンク
編集- 日本舞踊 花柳流 公式サイト - 公式サイト