舩山 謙次(ふなやま けんじ、1913年11月1日 - 2002年7月)は、日本教育学者。元北海道教育大学学長。専門は日本教育史。船山謙次とも書かれる。日本共産党員。

略歴

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山形県生まれ。1943年広島高等師範学校卒業1948年大熊信行米沢に主宰した教育思想研究会会員となり『時事通信.内外教育版』に執筆[1]。山形県教育委員会指導主事を経て1952年、北海道学芸大学助教授。1959年、教授(1966年、北海道教育大学に改称)。1971年、学長に就任。1975年に退任、名誉教授に。1977年、札幌商科大学教授(1984年札幌学院大学に改称)。1987年、退任。 1985年、叙勲二等瑞宝章

兄は哲学者マルクス主義者立命館大学名誉教授の舩山信一。妻は元新日本婦人の会札幌協議会代表の舩山しん。長女の夫は新しい歴史教科書をつくる会会長で元共産党員の藤岡信勝

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
舩山信一
 
舩山謙次
 
 
 
舩山しん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
藤岡信勝
 
 
 
長女
 
 
 
 

共産党員としての活動

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藤岡によると、舩山は「熱心な共産党の支持者だった。妻の母(注・舩山の妻、舩山しん)も『新日本婦人の会』の北海道の幹部として活躍し、両親とも北海道の教育界や左翼運動の方面では著名な存在だった」(ブログ「藤岡信勝ネット発信局」)。

共産党系の全国革新懇の地方組織「平和・進歩・革新をめざす北海道懇話会」(北海道革新懇話会)の代表委員を務め、有事法制自衛隊海外派遣国旗国歌法制定、教育基本法改正、オウム真理教への破防法適用などに反対。国政選挙の際には共産党機関紙「しんぶん赤旗」の「日本共産党の躍進に期待します」とのアピールに名前を連ねた。

共産党元副委員長の元衆議院議員・現名誉役員の石井郁子は教え子で、石井は2002年9月7日付しんぶん赤旗で「終盤国会のさなか、船山謙次先生の訃報(ふほう)が届いた。御夫婦で北海道の進歩と革新の運動に力を注がれ、折々にお便りで励ましをいただいていた。大学の教官室を教育科学研究のサークルのたまり場にしてサークル活動に夢中になった日々。そこが船山謙次先生の部屋でした」と死を惜しんだ。

主な著書

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  • 『戦後日本教育論争史―戦後教育思想の展望』(東洋館出版社、1958年
  • 『戦後道徳教育論史』(青木書店1981年

脚注

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  1. ^ 榊原昭夫「著者年譜」『昭和の和歌問題 下』短歌新聞社,393頁,1978年2月