能登 馬身龍(のと の まむたつ、生年不明 - 斉明天皇6年(660年)3月)は、飛鳥時代7世紀後半)の豪族

出自

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能登臣氏は『古事記』によると、崇神天皇の皇子、大入杵命(おおいりきのみこと)の子孫。能等国造を務めた豪族である。『万葉集』巻第十八4069番には、羽咋郡の擬主帳である能登臣乙美(のと の おみ おとみ)の和歌が掲載されている。

記録

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『書紀』巻第二十六によると、斉明天皇6年(660年)3月、阿倍比羅夫のことと思われる「阿倍臣」は「船師二百艘」を率いて「粛慎」を伐った、とあり、その顚末として、以下の物語がある。

陸奥蝦夷を乗せ、とある大河(石狩川、あるいは津軽半島十三湊あたりと推定される)へやって来た阿倍臣の軍は、渡嶋[1]の1,000人あまりの蝦夷の要請を受け、20艘あまりの船団からなる粛慎たちとの接触を試みたが、うまく行かなかった。そこで、綏帛(しみのきぬ)・兵・鉄を海のほとりに積んで、様子を見たが、結局はこれも失敗した。それでも、しばらくして粛慎たちは和睦を申し出てきたが、交渉決裂し、自分たちの柵(き)を拠点として阿倍臣たちと戦闘をすることになった。

この時の激戦で粛慎軍に殺されたのが、能登臣馬身龍である。結果として、決着がつかぬうちに敵方の粛慎は自分たちの妻子を殺した、という[2]

上記のことより、阿倍比羅夫の水軍が北陸地方国造の率いる兵を含んでいたことが窺われる。なお、須曽蝦夷穴古墳を能登馬身龍の墓とする説がある。

考証

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この出来事は、一見すると粛慎との交戦の記事のように見えるが、馬身龍が戦死した箇所を除くと目立った戦闘があったわけではなく、むしろ、日本側の鉄器・繊維製品と、粛慎側の島の羽や皮革などとの交易が所期の目的でだったのではないか、と新野直吉は述べている。

脚注

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  1. ^ 北海道渡島半島とする説と、朝廷の領土の北進とともに「渡嶋」と呼ばれる辺境も北へ移動していったとする説がある
  2. ^ 『日本書紀』斉明天皇6年3月条

参考文献

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  • 『日本書紀』(四)岩波文庫、1995年
  • 『日本書紀』全現代語訳(下)���講談社学術文庫宇治谷孟:訳、1988年
  • 『古事記』完訳日本の古典1、小学館、1983年
  • 『萬葉集』(六)完訳日本の古典7、小学館、1987年
  • 『日本古代氏族事典』【新装版】佐伯有清:編、雄山閣、2015年
  • 『日本の歴史2 古代国家の成立』、直木孝次郎:著、中央公論社、1965年
  • 『日本の古代3 海をこえての交流』、大林太良:編、中公文庫、1995年
  • 『毎日グラフ別冊 古代史を歩く8みちのく』、毎日新聞社、1987年より「古代東北通史」文:新野直吉

関連項目

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