綿襖甲(めんおうこう、満州語:yohan uksin)とは、中国を中心とする東アジアにおいて、最も広く使われたの形式の一つ。綿襖冑、綿甲、綿甲冑、綿冑とも呼ばれる。日本では奈良時代の一時期に軍団の装備として導入された。

綿襖甲を着用した清末の軍官(広西提督 蘇元春)
李氏朝鮮の綿襖甲とその内部構造。表から鋲留して裏側に小札(甲片)を止める。

概要

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2枚の布の間に綿などを挟み込んだで、世界中で使用されているキルティングアーマーの一種と言える。また、形状や役割が近いものとしては西洋で使用されたコート・オブ・プレートブリガンダインなどがある。

特徴的なのは、形状を外套状にしている事と、外側から金属製のを打って内側に製の小札(こざね)を止めている事である。

単に鎧としてのみではなく防寒の機能もあるため、北東アジアの寒冷な地域では特に好まれた。

生産が比較的容易であるため主に下級兵士のとして使用されたが、モンゴル帝国から代以降は上級者も含めて最も広く使用された。明に続く女真族でも同様である。朝鮮半島でも元の支配下にあった高麗後期から採用され、李氏朝鮮では全時代で上級者用として使用され続けた。

こうした後期の綿襖甲は、表側に甲がない事を生かして、美麗な刺繍などの装飾が施されているものが多い。

日本における綿襖甲

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奈良時代の日本では、古墳時代後半に出現した、短冊形の小鉄板(小札)を連接した小札甲短甲および挂甲[注 1])が生産されていたが、生産数は少なく諸国で年に各数領しか生産されていなかった。

天平宝字3年(759年)に第13次遣唐使が綿襖甲を持ち帰り、それを参考にして「唐国新様」として天平宝字6年(762年)正月に、東海道西海道南海道、各節度使の使料として各20250領を生産する事を大宰府に命じた。更に同年2月には1000領を作って鎮国衛府に貯蔵する事を命じている[3]

また、宝亀11年3月(780年)に勃発した宝亀の乱の際には征東軍に対して、5月に甲600領が支給され、7月に要請に応じて甲1000領と襖4000領が支給された[4]

この場合の甲とは鉄製の小札甲(挂甲短甲)を指し、襖は綿襖甲を指すと思われる。

その直後の8月には、「今後諸国で製造する甲冑は鉄ではなく革で作るように」という[5]があり、この時点で綿襖甲の生産も停止された可能性があるが、延暦6年(787年)の記録に「蝦夷に横流しされた綿で敵が綿冑を作っている」という記述[6]もあり、綿襖甲が日本で作られなくなった時期は判明していない。

脚注

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注釈

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  1. ^ 現在、古墳時代板甲(帯金式甲冑)を「短甲」と呼ぶ事が一般化しているが、「短甲」とは本来奈良平安時代史料(『東大寺献物帳』・『延喜式』など)に見える言葉で、小札甲の1種(胴丸式)を示していると考えられており[1]、古墳時代の板甲の呼称として用いるのは不適切とされる[2]。また「挂甲」も奈良時代の小札甲の1種(裲襠式)を表す言葉と考えられている[1]

出典

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  1. ^ a b 宮崎 2006, pp. 6–18.
  2. ^ 橋本 2009, pp. 27–30.
  3. ^ 『続日本紀』天平宝字6年(762年)正月及び2月の条
  4. ^ 『続日本紀』宝亀11年3月(780年)5月及び7月の条
  5. ^ 『続日本紀』宝亀11年(780年)の条
  6. ^ 『類聚三代格』巻19

参考文献

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  • 宮崎隆旨「令制下の史料からみた短甲と挂甲の構造」『古代武器研究』第7巻、古代武器研究会、2006年12月28日、6-18頁、NCID BA53426580 
  • 橋本達也「古墳時代甲冑の形式名称-「短甲」・「挂甲」について-」『考古学ジャーナル』第581巻、ニューサイエンス社、2009年1月30日、27-30頁、ISSN 04541634NCID AN00081950 

関連項目

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外部リンク

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