細山喜代松

日本の映画監督、脚本家 (1888-1941)

細山 喜代松(ほそやま きよまつ、1888年11月20日 - 1941年8月1日)は、日本の映画監督脚本家である。監督作『カチューシャ』のヒットで初期の日活向島撮影所を支えた。

ほそやま きよまつ
細山 喜代松
生年月日 (1888-11-20) 1888年11月20日
没年月日 (1941-08-01) 1941年8月1日(52歳没)
出生地 日本の旗 日本北海道小樽市
職業 映画監督脚本家
ジャンル サイレント映画
活動期間 1914年 - 1933年
活動内容 1913年 日活向島撮影所入社
1920年 国際活映設立に参加
1923年 同社解散、日活向島復帰
1923年 震災で日活京都撮影所へ異動
1924年 帝国キネマ演芸移籍
1925年 東亜キネマ甲陽撮影所移籍
1927年 阪東妻三郎プロダクション太秦撮影所移籍
1929年 フリーランス
主な作品
カチューシャ
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人物・来歴

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1888年(明治21年)11月20日、生まれる。北海道小樽市出身[1]

桝本清に師事、桝本の紹介で、満26歳となる1913年(大正2年)に日活が新設した日活向島撮影所に入社する[2]。翌1914年(大正3年)1月、自らオリジナルシナリオを書き下ろした『ちぎれ雲』で映画監督としてデビューした。同年3月、島村抱月松井須磨子が上演したレフ・トルストイの小説『復活』の舞台がヒットし、松井の歌う劇中歌『カチューシャの唄』がヒットしたのを受け、師の桝本がシナリオにし、『カチューシャ』と改題して細山が監督した[3]。同作は、同撮影所開所以来の大ヒットとなり、翌1915年(昭和4年)早々に続編『後のカチューシャ』、秋にはさらに『カチューシャ続々篇』を監督、日活は当時の金額で16万円の利益を上げた[3]。同年、泉鏡花の小説『義血侠血』を原作に『瀧の白糸』と名付けて映画化、以降、多数リメイクされた。

同年をもって日活向島を去る。その経緯は、映画史家の田中純一郎によると、『カチューシャ』の続篇撮影中に、撮影用に借用した馬が押上駅付近で事故が生じて即死し、責任の重大さを感じた細山は、これをきっかけに失踪したのだという[2]小口忠ひとりしかいなかった同撮影所に監督として投入されたが、同撮影所はふたたび小口ひとりになってしまった[2]

1920年(大正9年)、国際活映設立に参加、同社の設立第1作、『短夜物語』を手がける。同作は、女優林千歳の主演によるデビュー作であり、同社の現代劇部門である角筈撮影所で製作された。同社では撮影技師の青島順一郎と組むことが多かった。1923年(大正12年)には同社解散し、日活向島撮影所に復帰した。平戸延介時代の山本嘉次郎の脚本を多く監督した。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で向島撮影所は壊滅し、同年11月に日活京都撮影所へ異動した[4]。京都でも現代劇を手がけ、現代劇の第二部が設置されると異動して現代劇を監督した。

1924年(大正13年)、国活から向島に移籍した青島順一郎とともに帝国キネマ演芸に移籍、第2期の向島時代には組むことがなかったが、同社の芦屋撮影所で青島と組んで、1925年(大正14年)には千種香子主演の『映画女優』等を手がけた。同年の帝国キネマ社内での紛争で同社の小阪撮影所につくられた東邦映画製作所へ、青島とともに移籍になるが、『密造庫』1作のみを監督して、同年、東亜キネマ甲陽撮影所に移籍した。

1927年(昭和2年)、阪東妻三郎プロダクション太秦撮影所に移籍、翌1928年(昭和3年)には、同プロダクションの大作『霊の審判』にも関わるが、撮影途中の龍田静枝の病気降板で同作は製作を中止する。1929年(昭和4年)、同社は松竹キネマとの配給提携を破棄し、撮影所を松竹に明け渡した。それを機に、フリーランスとなった。

満45歳を迎える1933年(昭和8年)には、富士発声映画で、細山にとって初めてのトーキー作品『午前二時半』を手がけるが、これが遺作となった。

1941年(昭和16年)8月1日、死去した。満52歳没。

おもなフィルモグラフィ

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特筆以外はすべて監督。フィルムはほとんど現存していない。

日活向島撮影所

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1914年
1915年

国活

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1920年
1921年
1922年
1923年

日活向島撮影所

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1923年

日活京都撮影所

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1923年
  • 心を見つめて』 : 脚本三木京雨、撮影横田達之、日活京都撮影所
1924年

帝国キネマ演芸芦屋撮影所

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1924年
  • 迷夢』 : 撮影青島順一郎 - 監督・脚本
1925年

東亜キネマ甲陽撮影所

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1925年
1926年
1927年

阪東妻三郎プロダクション太秦撮影所

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1927年
1928年
1929年

フリーランス

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1931年
1933年 トーキー

脚注

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  1. ^ 『日本映画人名事典 監督編』キネマ旬報社、1997年
  2. ^ a b c 『日本映画史発掘』、田中純一郎冬樹社、p.127-128.
  3. ^ a b 『日本映画発達史 1 活動写真時代』、田中純一郎、中央公論社、1968年、p.218-223.
  4. ^ 『日本映画発達史 1 活動写真時代』、p.374

参考文献

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外部リンク

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