秦宓
秦 宓(しん みつ、しん ふく[1])は、中国後漢末期から三国時代の学者・政治家。蜀漢に仕えた。字は子勅。益州広漢郡綿竹県の人。
秦宓 | |
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蜀漢 大司農 | |
出生 |
生年不詳 益州広漢郡綿竹県 |
死去 | 建興4年(226年) |
拼音 | Qín Mì |
字 | 子勅 |
主君 | 劉備→劉禅 |
生涯
編集若い頃から文才や弁論に優れており、州や郡からたびたび招聘されたが、病と称して出仕することはなかった。劉焉の招聘を受けた際にも辞退したものの、湯王と伊尹、何武と襲勝・襲舎の故事を引いて同郷の任安を推薦した。後年、諸葛亮が任安の優れた点を秦宓に尋ねると、「人の善事を記憶し、過失を忘れるところです」と答えた。
劉璋の時代にも、同郷の治中従事王商からの出仕の誘いを拒否した。後に王商が荘遵と李弘のために祠を立てると、秦宓は手紙を送り、司馬相如も祀るように要請した。
同郷の彭羕は傲慢な性格で他人を軽侮することが多かったが、秦宓だけは尊敬し、広漢太守の許靖に推薦した[2]。しかし秦宓がこれに応えた記録は見えない。
劉備が益州を平定した後、広漢太守の夏侯纂は秦宓を五官掾・師友祭酒に任命して仲父と呼んだが、秦宓は病と称して出仕しなかった。夏侯纂は三度その邸宅を訪れ[3]、ある時は功曹の古朴、主簿の王普を伴い、食膳を持ち運んで語り合ったが、それでも秦宓が自邸から出ることはなかった。
その後、劉備に召し出されて従事祭酒となった。劉備が関羽の敵討ちのため呉を攻めようとした際(夷陵の戦い)に諌言し、一時投獄されている。
建興2年(224年)、諸葛亮は益州牧にな���とかねてより徳望高い士人を属官に抜擢したが、秦宓もその1人として別駕従事となった[4]。その後、左中郎将・長水校尉に転任した。呉の使者として張温が来訪すると、秦宓は弁舌でもって彼を言い負かし、「蜀に秦宓がいるのは、魯に孔子がいるようなものだ」と称賛を受けた[5]。
五帝の系譜、また皇・帝・王・覇について語り、その論は非常に筋道立っていた。譙周は若い頃に何度も秦宓を訪ねて質問し、その言葉を『春秋然否論』の中に記録した。『三国志』の編者陳寿は秦宓について「世俗から離れることを良しとしながら、愚人のふりをして世を避けようとはしなかった。しかし受け答えには余裕があり、文章は壮麗であった。一代の才士と言えよう」と評した。
三国志演義
編集小説『三国志演義』では、劉璋配下として登場する。劉璋が劉備を益州に迎えようとした際は反対した。劉備軍の簡雍が降伏勧告に来た時には、簡雍が取った傲慢な態度を一喝している。
出典
編集- 陳寿『三国志』巻38 蜀書 秦宓伝