熊倉一雄

日本の俳優、声優、演出家 (1927-2015)

熊倉 一雄(くまくら かずお、1927年昭和2年〉1月30日[1][7][2][8] - 2015年平成27年〉10月12日[5][9][8][7])は、日本俳優声優演出家テアトル・エコー所属で[6][2]、生涯に渡って代表取締役演劇担当を務めていた。

くまくら かずお
熊倉 一雄
熊倉 一雄
1962年
本名 熊倉 一雄[1][2]
生年月日 (1927-01-30) 1927年1月30日
没年月日 (2015-10-12) 2015年10月12日(88歳没)
出身地 日本の旗 日本東京府東京市麻布区(現:東京都港区[3][4]
死没地 日本の旗 日本・東京都[5]
身長 157 cm[6]
血液型 A型[6]
職業 俳優声優演出家
ジャンル テレビドラマ映画舞台アニメ吹き替え
活動期間 1951年 - 2015年
配偶者 あり
所属劇団 テアトル・エコー(最終所属)[6]
主な作品
トラヒゲ(『ひょっこりひょうたん島』)
エルキュール・ポワロ(『名探偵ポワロ』)
受賞
紫綬褒章
勲四等旭日小綬章
紀伊國屋演劇賞
NHK放送文化賞
備考
ゲゲゲの鬼太郎主題歌を歌唱
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来歴

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東京府東京市麻布区(現・東京都港区)三ノ橋出身[3][4]。父は工作機械のセールスマン[3]。母方の祖父はの会社の技師長[3]青山で1年ほど暮らして、5歳の時、一家は下町、東京府東京市京橋区入船町(現:東京都中央区入船[注釈 1]に越して父の両親と同居[3]。この町で小学校時代を送っていたが、元々虚弱体質であり、小学2年生の時に肋膜炎を罹り3ヶ月ほど自宅療養し、本ばかり読んでいた[3][4][8][10]。将来は発明家になりたいと考えており、エジソンが好きだった[3][8]。旧制東京府立第八中学校(現・東京都立小山台高等学校)に進学する頃に父が米国企業に転職し、家計は楽になり、一家は再び山の手の東京府東京市大森区大森(現:東京都大田区大森)に転居[3]。中学5年生の時、 旧制第二高等学校(現・東北大学)を受験するも失敗し、慶應義塾大学経済学部予科に進学[3][8]1944年、授業など殆どなく、栃木県へ援農(勤労動員)に行ったり、東京都品川区大崎の工場でボールベアリングを作ったり、三交代制で飛行機を作らされる毎日に嫌気が差して秋に中退[3][8]。翌年4月、外交官を志して旧制都立高等学校文科(後の東京都立大学)を受験し、進学[3][8]。終戦後、「一体これからどうしていけばいいのか」と、見当がつかなくなり、父も仕事から外れ、しばらくはボンヤリして晴耕雨読のような毎日を送って1年休学[3]。復学をする時に「もっと現実的な職業を考えなきゃ」と考えた際、15歳で虫垂炎の手術をしていた時の医者が素晴らしい人物であったことを思い出し、医者というのは「いい仕事だな」と思っていたという[3]。「医者になろう。少なくとも社会に貢献できる仕事だ」と同高等学校理科[注釈 2](後の東京都立大学 (1949-2011)理学部、現在の東京都立大学都市教養学部理工学系)に編入[3][12][13]。編入後、友人に誘われるまま理科演劇研究会に入部し、同高等学校在学中、記念祭で催した芝居のゴーゴリ『検察官』をきっかけに演劇に興味を持ち始める[8][10][13]。翌年の記念祭では太宰治作『カチカチ山』のタヌキ役を演じて演技賞までもらってしまったという[3][12]。同校卒業後の、1949年劇団感覚座を設立[6][13]。しかし多額の負債を抱え込み1年で解散[12]

1950年東京演技アカデミー楽劇科に入学し[6][13]、将来のミュージカルスターを夢見て、ミュージカルを中心に学ぶが、学校が1年後に倒産[8]。目標を失い、その上帰る家も失い、途方に暮れて、仕方なくアルバイトを続け、その日その日の生計を立てることになったという[8]。戦後も間もない頃のことでそうそう働けるところはなかったが、生来の手先の器用さを利用して、筆耕、看板書きの仕事を見つけては働いていたという[8]。何も仕事のない時には病院に行って、売血をしてその日の糧を得ていた[8]。そんなどん底生活をしていた時、「いい若いモンが己の血を売って生きていくなんていいことじゃない、うちへ飯を食いにこい」と優しい言葉をかけてくれた医師がおり、その先生の家に2年間も居侯させてもらっていた[8]。ある時、進駐軍(アメリカ駐留軍)回りのダンシングチームで、コミックショーをやる男優を何人か探しているという耳よりな情報が仲間からもたらされ、仲間とトリオを組んでショーでパントマイムをやらせてもらうことにして、日本語を喋ってもシャレが通じないと考えたコミックマイムは、大いに受けたという[8]アメリカ合衆国のヒットナンバーを歌って、柳沢真一とも舞台を共にしていた[8]。ある時、柳沢のマネージャーから、「楽譜が読めるなら写譜を手伝ってくれないか」と頼まれ、即座に書き上げてマネージャーを驚かせる[8]。その話はすぐに広がり、帝国劇場日本劇場から写譜の仕事が転がり込んでくるようになったという[8]。舞台が開くぎりぎり2、3日前に、どんどん山のように譜面が渡されるのだったことから、猛スピードで仕上げていかなければならず、いつも徹夜で写譜することになった[8]。同時に収入はぐんとはね上がり、貯金もでき、念願のミュージカルタレントになるための軍資金を得ることができたという[8]。その頃、ルネ・クレールのフランス映画『自由を我等に』を見て感銘を受けて、歌える役者を目指して、歩み続ける決意を新たにしていた[8]。1952年[14]劇団東芸の研究生として入団[2][6][8][14][13]。東芸の先輩には大塚周夫がいる[8]。その時は公演が始まっても、大道具、照明の係で、裏方として働かされることが多かったという[8]。その後は俳優活動をしていたが、先輩の東宝映画出演が決まって、熊倉にも戦争もので、戦況を伝える伝令役で転がり込んで、配役表に熊倉の名前が印刷された台本を渡され、ロケ地の伊豆大島で、緊張しながらリハーサルをしていた[8][12]。本番では極度に興奮し、身体がワナワナと震えていくのを感じ、頭の中が空っぽになって台詞が全く出てこなかったという[8]。カメラだけがジーッと音を立てて回り続けて、監督の厳しい声が響き、その後も何回か撮影し直しが続いていたが、いずれも絶句したり台詞を間違えたりしており、監督もサジを投げて、急遽代役が立てられることになったという[8]。その時に「俺はバカだ!こんなバカがどうして役者になんかなろうとしたんだ!!」「役者では芽が出ない」と思うようになり、俳優活動を休止する[8][12]

1953年開局間もない日本テレビに入社[8][12]。スタジオ班に配属され[6]、主にテレビドラマの大道具を担当[8][15]。当時は放映されるドラマの数が少なく、セットが完成すると次のドラマの準備まで時間が空くため、その合間に「バーテンダーの役をやってみろ」、「婆さんの役をやってみろ」と言われ、通行人等の端役でドラマにも出演していた[8][15]。このドラマ出演をきっかけに再び俳優業に興味を持つようになり、日本テレビを退社し、劇団東芸に戻り、俳優活動を再開する[8][12]

1956年9月、テアトル・エコー[16]へ入団[6]。翌1957年にアルバイトで海外ドラマ『海賊船サルタナ』のアテレコの仕事に出演して声優としての活動を始める[8][10]。同年に日本テレビで放映された『ヒッチコック劇場』で、元社員であった縁でキャスティングプロデューサーとして声優のキャスティングを担当[12]アルフレッド・ヒッチコックは放映開始当時、スーパーインポーズで吹き替えはなし)。担当ディレクターに、ヒッチコックの吹き替えに適当な役者がいないと相���したところ、熊倉本人に吹き替えを担当するように指示[12]。 吹き替えの話し方が話し方がヒッチコックの風貌と合い[17]、熊倉の声優としての最初の成功作となる。以後数々の作品に声優として出演する。アニメでのデビューは『ポパイ』のブルート役[8]。プレーヤーズセンターに所属していた時期もある[2]

1968年には『ゲゲゲの鬼太郎』の主題歌を歌い、キングレコードのヒット賞を受賞[12]

ディズニーの長編アニメの吹き替えも複数担当していた。

テアトル・エコーでは演出家を兼ねて指導的立場となり、1969年には『ひょっこりひょうたん島』『ブンとフン』などテレビ・ラジオでの協業が多かった放送作家・井上ひさしにデビュー戯曲(実際はこれ以前に雑誌掲載のみの習作もある)『日本人のへそ』の執筆を依嘱。ブレヒト風の歌入り芝居に風刺と推理劇を盛りこみ、二重三重の劇中劇が入り組む前代未聞の作となり、主演と演出を兼ねての公演はセンセーショナルな成功を収める。以後、作・井上ひさし、演出・熊倉一雄のコンビは数年にわたって話題作を連打し日本の演劇界の話題を集め続けた。1977年には『日本人のへそ』映画版にも出演したが、ハナ肇とともに原作にない劇中劇の照明係(そのため出番が少ない)という扱いでのゲスト出演であり、熊倉が初演等の舞台で演じた役はなべおさみに譲られた。井上が大劇場へ転じてからはニール・サイモンなど翻訳喜劇を多く取り上げている。1991年紫綬褒章受章、1998年勲四等旭日小綬章受章、1998年紀伊国屋演劇賞個人賞受賞、2015年NHK放送文化賞受賞[18]

2015年10月12日午後3時24分、直腸癌によるがん性腹膜炎のため都内の病院で死去[5]。88歳没[5]。2014年11月に行われた舞台「遭難姉妹と毒キノコ」が最後の出演となった[9]

人物

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声優としての当たり役にはヒッチコックのほか、1990年から日本で放送が開始されたテレビドラマ版の『名探偵ポワロ』のエルキュール・ポアロデヴィッド・スーシェ)の吹き替えがあり、熊倉のライフワークとなっていた。

ひょっこりひょうたん島』(トラヒゲ)、『ばくさんのかばん』(ばくさん)でも知られる。

愛称はクマちゃん[8]

高校時代は音楽部に所属していた[8]ピッコロを担当したり、中学時代の仲間が結成した未完成室内楽団に入部してもらったりしていた[3]

エピソード

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山田康雄納谷悟朗等を自らテアトル・エコーにスカウトしており、誘われた山田は「熊ちゃんは人拐いだった」と称している。

神谷明は熊倉の三枚目の演技と歌唱に感銘を受け、後に『キン肉マン』で主人公キン肉マンを演じる参考になったと語っている[19]

2012年に、BSプレミアムで放映された『名探偵ポワロ』の新シリーズの吹き替え収録でのプレマップのインタビューの際には、「ポワロにはまだまだドラマ化されていない作品が残っておりますので、私もこれからも頑張ってやっていきます」と、これからもポワロの吹き替えを続けていく意気込みを語った(ポワロを演じているデヴィッド・スーシェも「全ての作品を演じるまでは続けていく」と語っている)。そして、2014年の最終シリーズ放送に際して行われたインタビューで、「この吹き替えの仕事だけは誰にも渡したくないと思っていたが、生きているうちに最後まで吹き替えられるか心配だったため、無事に完遂して仕事を果たした気持ちになった」と語った[20]

『名探偵ポワロ』の吹き替えで共演したミス・レモン役の翠準子とは長く同じ劇団にいたため古い付き合いで、ジャップ警部役の坂口芳貞とは酒を酌み交わす仲だという。一方、シリーズ途中でヘイスティングス大尉役の富山敬が死去したことに対して「辛かった」とも述べた[20]。富山からヘイスティングス役を引き継いだのは劇団の後輩の安原義人だった。

出演作品

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太字はメインキャラクター。

テレビドラマ

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映画

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舞台

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  • 表裏源内蛙合戦(1970年) - 裏の源内 役※演出も担当[21]
  • 11ぴきのねこ(1973年) - にゃん太郎 役※演出も担当[22]

テレビアニメ

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1963年
1965年
1966年
1967年
1969年
1970年
1979年
1980年
1982年
1985年
1986年
1992年
1999年
2004年
  • MONSTER(2004年 - 2005年、赤ん坊)

劇場アニメ

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ゲーム

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吹き替え

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俳優

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洋画

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海外ドラマ

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海外人形劇

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海外アニメ

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人形劇

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バラエティ

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教育番組

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音楽番組

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ラジオ

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ラジオドラマ

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書籍

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  • 僕らを育てた声 熊倉一雄編(アンド・ナウの会)

その他のコンテンツ

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音楽

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後任

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熊倉の死後、持ち役を引き継いだ人物は以下の通り。

後任 役名 概要作品 後任の初担当作品
多田野曜平 ミスター・スミー ピーター・パン ジェイクとネバーランドのかいぞくたち
コグスワース 美女と野獣 美女と野獣“魔法のものがたり”
浦山迅 先生 白雪姫 ディズニー・クリスマス・ストーリーズ
高木渉 ゼペット ピノキオ ピノキオの冒険旅行』アナウンス部分
小倉久寛 コグスワース 『美女と野獣』 美女と野獣
楠見尚己 スクービー・ドゥー スクービー・ドゥー 弱虫スクービーの大冒険

脚注

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注釈

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  1. ^ 同インタビューでは入舟町と書かれている[3]
  2. ^ 都立理工専門学校中退とする資料もある[11]。東京都立大学のシステムデザイン学部は都立理工専の流れを汲む。
  3. ^ 亡くなる1か月前から興行されており、声優としては最後の出演作となった。興行中は熊倉の出演については非公表だったが、興行終了後の2019年3月20日に発売された『東京ディズニーリゾート 35周年 アニバーサリー・セレクション-東京ディズニーリゾート 35周年 Happiest Celebration!-』(BD:VWBS-6781/DVD:VWDS-6781)の出演者クレジットにて熊倉が出演している旨が掲載されている。
  4. ^ ライブラリ出演。

出典

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  1. ^ a b 成美堂出版 編「男性篇」『声優名鑑』成美堂出版、1999年8月10日、435頁。ISBN 4-415-00878-X 
  2. ^ a b c d e 「新桜オールスタァ名鑑」『芸能画報』3月号、サン出版社、1958年。 
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 斎藤明美「これがはじまり 第22回 熊倉一雄」『キネマ旬報』第1498号、2008年1月上旬号、キネマ旬報社、2008年1月1日、146-149頁。 
  4. ^ a b c “熊倉一雄さん(俳優・演出家)と読む『三四郎』”. 朝日新聞. (2013年9月15日). オリジナルの2016年4月3日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160403163703/http://book.asahi.com/reviews/column/2013091500017.html 2023年7月28日閲覧。 
  5. ^ a b c d 「鬼太郎」主題歌・熊倉一雄さん死去”. デイリースポーツ (2015年10月16日). 2015年10月16日閲覧。
  6. ^ a b c d e f g h i 熊倉一雄”. テアトル・エコー. 2016年11月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年5月7日閲覧。
  7. ^ a b c 野村宏平、冬門稔弐「1月30日」『ゴジラ365日』洋泉社映画秘宝COLLECTION〉、2016年11月23日、35頁。ISBN 978-4-8003-1074-3 
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai 勝田久「file No.22 熊倉一雄」『昭和声優列伝 テレビ草創期を声でささえた名優たち』駒草出版、2017年2月22日、245-256頁。ISBN 978-4-905447-77-1 
  9. ^ a b “熊倉一雄さん死去 「ひょうたん島」トラヒゲの声も”. 朝日新聞デジタル (朝日新聞社). (2015年10月16日). オリジナルの2015年10月16日時点におけるアーカイブ。. https://archive.is/20151016131104/http://www.asahi.com/articles/ASHBJ71YHHBJUCLV015.html 
  10. ^ a b c 熊倉一雄さんに演劇直前インタビュー 楽屋訪問23”. 鳴門市民劇場. 2022年12月20日閲覧。
  11. ^ 熊倉一雄(くまくら かずお)とは”. コトバンク. 朝日新聞社、VOYAGE GROUP. 2017年5月7日閲覧。
  12. ^ a b c d e f g h i j 「極 声魂/熊倉一雄」『声優アニメディア』2010年11月号、学研ホールディングス、2010年10月、108-109頁。 
  13. ^ a b c d e 横溝幸子「une heure avec--熊倉一雄(インタビュー)」『悲劇喜劇』1992年7月号、早川書房、1992年7月、77-79頁。 
  14. ^ a b 『タレント名鑑』《NO1》芸能春秋社、1962年、33頁。 
  15. ^ a b コートク (2011年11月29日). “『ひょっこりひょうたん島』トラヒゲ声優、熊倉一雄さん講演会をレポート”. おたくま経済新聞. https://otakei.otakuma.net/archives/6396222.html 2023年6月9日閲覧。 
  16. ^ 熊倉一雄&丸山裕子インタビュー”. ネオ・ユートピア. 藤子不二雄ファンサークル (2011年9月18日). 2017年5月7日閲覧。
  17. ^ 世相風俗観察会『現代世相風俗史年表:1945-2008』河出書房新社、2009年3月、81頁。ISBN 9784309225043 
  18. ^ “熊倉一雄さんが死去「ゲゲゲの鬼太郎」の主題歌”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社). (2015年10月16日). https://www.nikkansports.com/entertainment/news/1553637.html 2017年5月7日閲覧。 
  19. ^ 神谷明、熊倉さん偲ぶ「三枚目どれほど役立ったか」”. 日刊スポーツ (2015年10月18日). 2023年10月19日閲覧。
  20. ^ a b 「熊倉一雄インタビュー」『NHKウィークリーステラ』9/12号、NHK、2014年、25頁。 
  21. ^ 『芸能』8月号、芸能学会、1970年、59頁。 
  22. ^ 『芸能』8月号、芸能学会、1973年、53頁。 
  23. ^ ジャングル大帝”. 手塚治虫公式サイト. 2016年6月8日閲覧。
  24. ^ 未来からきた少年 スーパージェッター(モノクロ版)”. エイケン オフィシャルサイト. 2016年6月11日閲覧。
  25. ^ リボンの騎士(パイロット)”. 手塚治虫公式サイト. 2016年5月21日閲覧。
  26. ^ トンデモネズミ大活躍”. 日本アニメーション. 2016年5月18日閲覧。
  27. ^ “悪魔島のプリンス 三つ目がとおる”. 手塚治虫公式サイト. https://tezukaosamu.net/jp/anime/61.html 2016年5月8日閲覧。 
  28. ^ 長靴をはいた猫”. 優秀映画鑑賞推進事業. 2024年8月11日閲覧。
  29. ^ パンダコパンダ”. トムス・エンタテインメント 公式サイト. トムス・エンタテインメント. 2024年5月6日閲覧。
  30. ^ パンダコパンダ 雨ふりサーカスの巻”. トムス・エンタテインメント 公式サイト. トムス・エンタテインメント. 2024年5月6日閲覧。
  31. ^ キャラクター/キャスト”. 東映アニメーション作品ラインナップ. D51の大冒険 きかんしゃやえもん. 東映アニメーション. 2024年5月6日閲覧。
  32. ^ キャラクター/キャスト”. 東映アニメーション作品ラインナップ. 龍の子太郎. 東映アニメーション. 2024年5月6日閲覧。
  33. ^ 火の鳥2772 愛のコスモゾーン”. 手塚治虫公式サイト. 2016年5月19日閲覧。
  34. ^ 猿の惑星”. WOWOW. 2017年5月7日閲覧。
  35. ^ 続・猿の惑星”. WOWOW. 2016年7月25日閲覧。
  36. ^ ピーター・パン”. Disney Blu-ray&Digital. 2024年4月11日閲覧。
  37. ^ 『日刊スポーツ』1977年7月2日付テレビ欄。

外部リンク

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