潮文社
株式会社潮文社(ちょうぶんしゃ)は、かつて東京都新宿区にあった出版社。代表的書籍としては、『山頭火著作集』『シルバー・バーチの霊訓』『心に残るとっておきの話』などがある。
潮文社 | |
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正式名称 | 株式会社潮文社 |
現況 | 任意解散 2017年(平成29年)7月1日 |
種類 | 株式会社 |
出版者記号 | 8063 |
法人番号 | 3011101012954 |
設立日 | 1966年(創業は1956年) |
代表者 | 小島米雄(解散時 代表取締役社長) |
本社郵便番号 | 162-0843 |
本社所在地 | 東京都新宿区市谷田町2丁目31番地 |
関係する人物 | 小島正(初代 代表取締役社長) |
概要
編集小島正と小島米雄の兄弟が1956年(昭和31年)に創業。1966年(昭和41年)10月12日、株式会社となる。半世紀以上にわたり、兄 小島正が社長で編集部門の担当、弟の小島米雄が専務で経理と営業部門の担当であった。出版内容の方向性は小島正の主��によるものであったが、共同経営者としての小島米雄の存在によって、二人三脚で経営していたと言える。なお、国会図書館のデータなどによると、京都府に同名の潮文社があったため、1959年(昭和34年)頃、一時「東京潮文社」と称していた時期がある。
書籍の奥付に表記される発行人としては、創業当時は初代社長の小島正の名を出していたが、1959年(昭和34年)以降、その専務時代から小島米雄の名を出していた。これは小島正が社長であると同時に著者[注釈 1]でもあったからである。
1972年(昭和47年)には、社外からの出版活動参画のための「編集嘱託」制度を始めた。新たな著者開拓のために原稿募集もしたが、自費出版のための業務はしなかった。所在地は3回移転[注釈 2]したが、すべて東京都新宿区にあった。1980年代には労働争議があった。
2011年(平成23年)、小島正亡き後、小島米雄が2代目社長となった。その後新刊は出さず、既刊書籍の増刷と在庫書籍の販売によって営業を続けた。創業より61年の後、2017年(平成29年)7月1日、任意解散により自主廃業。
代表的出版物と方針
編集三つの作品群を中心に解説
編集部の方針と潮文社新書
編集編集部は企画・編集を進めるうえで、固定化された常識などに囚われずに世の中や生き方を考えていこうという姿勢を重要視していた。一般教養書の出版社として文系の様々な分野に関わる書籍を出した。政治・経済・社会分野の他、健康に関する書籍も多数あるが、生き方を真摯に考えることに繋がる、人生・宗教・文化に関する書籍には力を入れていた。
新書判のシリーズとしては、「潮文社新書」シリーズと「潮文社リヴ」シリーズがあった。「潮文社新書」シリーズは、「現代人の詩と叡智」をキャッチフレーズとして真摯に人生と向き合う本が多かった。一方、「潮文社リヴ」シリーズでは気軽に読める実用書などを扱った。このシリーズでは様々な健康書も扱った。潮文社の初期に出されたハードカバーの書籍で、後に「潮文社新書」シリーズに組み込まれるものも多かったが、『山頭火著作集』の場合は、一般読者が気軽に手に取れるように最初から「潮文社新書」として出された。
『山頭火著作集』
編集潮文社の功績として先ず挙げられるのは、俳人の種田山頭火(たねださんとうか)を世に広く認知させたことである。後にその句は小中学校の教科書にまで登場するようになるが、かつては五・七・五の定型や季語にとらわれない自由律の俳人・山頭火の名は、限られた俳句の世界やゆかりのある地域以外ではほとんど知られていなかった。一般の読者に向けての紹介に力を注ぎ[注釈 3] [注釈 4]、山頭火ブーム[注釈 5]の原動力となった。
『山頭火著作集』が生まれるきっかけとなったのは、上田都史の『俳人山頭火』であった。山頭火の俳句と彼の生きざまが、編集者であると同時に生き方の探究者としての小島正社長[注釈 6]を動かし、出版となった。一方、山頭火の原稿を保存していた大山澄太は、山頭火が一般にはほとんど無名だったため、複数の出版社から出版を断られていた。上田都史の紹介により、大山澄太が持つ山頭火の原稿を順次出版することになったのである。[注釈 7]
宗教書・スピリチュアリズム関係書
編集宗教関連の本は多かった。しかし潮文社としては、一宗一派にこだわったり、それらを押し付けるのではなく、読者自身が考えるための手助けをさせてもらう、という姿勢であった。小島正自身が仏教的世界観をベースに持っていたこともあり、仏教、特に禅関係の本は多かったが、キリスト教系や神道系の本も何冊も出している。 また、メジャーではない宗教または宗教的思想についても、小島正や編集部がその時点における紹介意義があると判断した場合、書籍にしていた。潮文社によって紹介された宗教家や思想家の中には、後に方向性や表現内容において潮文社側の思いとの違いが顕在化し出したケースもあった。
近藤千雄や浅野和三郎などによるスピリチュアリズムの書籍にも力を入れた。潮文社のスピリチュアリズム関係の書籍に挿入されていた目録には、「人間的霊性の開花のために」と書かれていた[注釈 8]。モーリス・バーバネルを介して得られたシルバーバーチ による霊訓は、世界三大霊訓の一つとされる。近藤千雄によるその翻訳『シルバー・バーチの霊訓』[注釈 9]シリーズ12冊は、日本にけるスピリチュアリズム関連書籍の中での金字塔と言える。このシリーズは、多くの思想家や宗教家を含む様々な立場の人たちから、宗教・宗派などの枠を越えて、人生哲学として、また精神世界の道しるべとしても支持され続けている。『シルバー・バーチの霊訓』の翻訳出版により、特に日本においては、スピリチュアリズム系の執筆者や彼らの書籍を出版する他の出版社にも大きな影響を与えた。
「(公財)日本心霊科学協会」による『シルバー・バーチの霊訓』と潮文社についての解説がある[4]。
『心に残るとっておきの話』
編集『心に残るとっておきの話』は 一般人から募集した忘れられない感動的な実話をまとめたもので、シリーズ累計で140万部を越えるベストセラーとなった。身分や立場を越えて人々の素直な心情や感動を集めた和歌集の『万葉集』に思いを馳せ、最初「平成・煌めく人間万葉集」を帯や広告などでのキャッチフレーズとしていたが、第4集以降サブタイトルとした。この本の出版は、発行の30年以上も前から小島正が温めていた企画であった[5]。このヒットによって、以後多くの雑誌の記事やテレビ番組などで、タイトルの一部に「心に残る」「心に染みる」や「とっておきの」という言葉をつけることが多くなったと言われる。
理念と実践
編集潮文社の経営や出版内容については、その社是の意味するところが非常に重要である。小島正の出版社の社長としての思いは、潮文社の社是であると同時にキャッチフレーズでもあった「時代と共に時代を超えて」という言葉に凝縮されていると言える。小島正は、「会社と共に会社を超えて」のように、「時代」という言葉を「会社」「自分」「常識」「利益」「信条」「理想」など別の言葉にも置きかえてみるとよいと語っていた。この社是は「言葉をかえて言えば、自らの思想も信条も超えること、利害や好悪、そして正邪をさえ超えた全人間的次元に立つものでありたいということである」[注釈 6] [注釈 10]と述べている。
もともと小島正は自らの生き方や経営のあり方として「誠実でありたい」という強い思いを持っていたが、この誠実さの追求から生まれた社是であった。「この社是は詮ずるところお互いに人間として誠実に生きるということに尽きる」と言っている。 また、「社是は、人間関係の面から言えば、人を手段として見ず、目的としてみる、人間の尊厳の自覚と実践を目指す、ということでもある」とも言っていた。[注釈 10] この潮文社の理念が観念だけのものではなく実践を目指すものであったため、社員の中には最初この理念や小島正の考え方に漠然と観念的には共感しながらも、現実的にはついて行けなくなり、逆に社長や会社に対して反発を感じるようになった社員もいたという。
社是に込めた思いは、労働争議における会社側の考え方にも表れることになる。[注釈 10]
労働争議
編集1980年代の前半から中頃にかけて、従業員の賃金の支払いなどに関する労使の認識の違いによって労働争議があった。賃金などの支払いについては専務の担当であったが、他社の労働組合員が多数参加する団体交渉(団交)では、小島正は社長として前面に立っていた。しかし、団体交渉において、( [理念と実践] の項で)前述した「誠実さ」そのものに対する強い思いや「道義を重んじ」「筋を通す」という思いを、同じ土俵の上で労働組合側と共有することはできなかった。会社側としては組合側の要求にそのまま応えることが誠実であるとは考えなかった。組合側が求める「誠意」と会社側が考える「誠実」がかみ合わなかったのである。
会社側は業績が悪化している状況下で組合側から経理資料を求められたが、会社側と組合側とのやり取りによって影響を受ける直接間接の関係者や関係会社の立場へも極力配慮し、会社側の大局的判断として、資料は提示しなかった。東京都労働委員会及び中央労働委員会は、社長の側の思いとは逆に、「不誠実団交」や賃上げを行わなかったこと等により会社側に不当労働行為があったとした。東京地方裁判所はこれを支持し、会社側は最終的に最高裁判所まで上告したが、棄却された。[注釈 10] [7]
出版物の発行年
編集本ページに登場した書籍とその関連書籍
- 『山頭火著作集』
- 『シルバー・バーチの霊訓』(一) - (十二)
- 『心に残るとっておきの話』
脚注
編集注釈
編集- ^ 小島正は、新島正のペンネームで、『ユーモア(教養への反省)』(1958年)、『ユーモアについての43章』(1961年)、『人生論を越えて(自己を開くもの)』(1970年)、『大乗仏教の玄関から奥座敷まで(我他彼此<がたひし>をこえて)』(2003年)などを執筆している。(いずれも潮文社刊)
- ^ 所在地はどれもJR市ケ谷駅の新宿区側にあった。変遷は順に以下の通り。
- ^ 1972年には、『山頭火著作集』の広告のために、出版社の規模としては無理をしてカラーの新聞全面広告を出した。(カラー広告にもかかわらず、黒系の地にあえてタイトルだけをオレンジ色にしたもので、当時としては思い切ったユニークなデザインであり、潮文社の意気込みを示していた)
- ^ 1972年、山頭火の紹介のために、山頭火の師匠でもあった自由律俳人・荻原井泉水などを講師として [「山頭火」講演会] を新宿の紀伊国屋ホールで開くなどした。
- ^ 高倉健の最後の映画となった『あなたへ』の中で、潮文社の『山頭火著作集』の一冊(実物)が登場する。高倉健演じる主人公が旅で知り合った男(ビートたけし)から山頭火の話を聞いた後、旧版の著作集のなかの『草木塔』をもらい、それを携えて旅を続けていた。 山頭火ブームの中で、山頭火の本を携えて旅をする人が実際多くいたと考えられる。
- ^ a b 小島正の経営に関する考え方と社是については、雑誌のインタビューで語られたことが「潮文社出版の原点と社長小島正氏」として紹介されている。同誌の中で、「自分の出版の初心は、如何に生きるかという問題の追及である」と言っている。[1]
- ^ 「山頭火ブームについて」と題した雑誌の記事の中で、『山頭火著作集』が生まれた経緯とブームの背景について、小島正が述べている。[2]
- ^ 潮文社が紹介した「スピリチュアリズム」の意義:
「スピリチュアリズム」の意味については、『シルバー・バーチの霊訓』内にも近藤千雄による説明があるが、専門家によっても視点や立場によって見解や表現に違いがありうるため、本ページでは短い断定的説明をさける。しかし、潮文社編集部が「スピリチュアリズム」の考え方として読者に紹介しようとしたことは、『シルバー・バーチの霊訓』の紹介文の中で、特に下記の文章に集約的に示されていると言える。
「人間は霊を持った肉体ではなく肉体を持った霊であり、その霊性の進化のために様々な経験と学習を積んでいくことに意味があることを、シルバーバーチは繰り返し語っている」[3] - ^ 書籍の表紙のタイトルの『シルバー・バーチの霊訓』には「・」が入っているが、本文中での名の表記では「シルバーバーチ」を使っている。
- ^ a b c d 労働争議により、潮文社から東京地方裁判所に行政訴訟のために提出した裁判資料[6]には、社是や「誠実であること」についての小島正自身の考えにも、表現を変えながら何度も言及していた。
出典
編集- ^ 雑誌『女性仏教』1980年6月1日発行(通巻283号 44頁から47頁:文一総合出版)(『女性仏教』の販売元は文一総合出版のままであったが、発行所は、その後「女性仏教社」さらに「アクア出版」に変わった。このため、廃刊になっている『女性仏教』を図書館などで探す場合、最後の「アクア出版」でも検索したほうが良い。)
- ^ 『別冊新評 山頭火の世界』1978年4月10日発行(第11巻第1号 通巻第44号 178頁から180頁:新評社)
- ^ 『シルバー・バーチの霊訓』の帯の文章より
- ^ “『シルバーバーチの霊訓』ブックガイド2”. (公財)日本心霊科学協会」 (2021年5月25日). 2022年8月3日閲覧。
- ^ 小島正(新島正)の1961年の自著『ユーモアについての43章』のあとがきの中 (244頁) で、『心に残るとっておきの話』の構想を持っていたことが書かれている。
- ^ 準備書面及び意見書 [事件番号:東京地裁 昭和60年 (行ウ) 第178号]
- ^ 労働委員会関係裁判例データベース(「潮文社(概要情報 他)」)
関連項目
編集- 植木宣隆 - 編集者、出版事業家。1976年-1978年に社員在籍。