深溝 (幸田町)
愛知県幸田町の地名
深溝 | |
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三ヶ根山より望む深溝市街地(2012年9月) | |
深溝の位置 | |
北緯34度50分9.9秒 東経137度10分41.7秒 / 北緯34.836083度 東経137.178250度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 愛知県 |
郡 | 額田郡 |
市町村 | 幸田町 |
面積 | |
• 合計 | 9.610952222 km2 |
人口 | |
• 合計 | 5,357人 |
• 密度 | 560人/km2 |
等時帯 | UTC+9 (日本標準時) |
郵便番号 |
444-0124[3] |
市外局番 | 0564(岡崎MA)[4] |
ナンバープレート | 岡崎 |
地理
編集深溝は幸田町の最も南に位置し、幸田町の南東端にある大字である。三ヶ根山(さんがねさん)と遠望峰山(とぼねやま)に挟まれ広い谷のような地形である。山で四方が隔てられており、開発が遅れたために田舎である。現在は国道248号が通り、徐々に発展しつつある。深溝には東海道本線が縦断し、三ケ根駅を中心に街が広がっている。
歴史
編集戦国時代以前
編集深溝には東光寺遺跡があり、縄文時代からの集落だったと考えられる。海が近かったため非常に豊かで、長野県のものと思われる黒曜石が出土し内陸部の集落と交流があったと考えられている。
東光寺遺跡では竪穴建物が見つかり、非常に発展したといえる。ガラス玉や、弥生時代後期のものと考えられる無痕の土器などが、出土した。この時代にしては、大きな集落だったという。
古墳時代には支配者層を葬ったと思われる古墳が3つ確認されている。日向山古墳、見晴山古墳、馬乗二号墳である。
鎌倉時代となった寛喜3年(1231年)大場氏が深溝城を建城。
室町時代の寛正6年(1465年)、大場次郎左衛門兄弟等が額田郡井ノ口村に砦を構え、東海道の往来を妨げる事件が起きた。幕命によって彼等は松平信光親子に討たれた。松平氏の深溝進出が始まり、大場はこれと戦わざるを得ない状況になったと思われる。
大永4年(1524年)に深溝城が、松平信光の子、松平忠定に奪われる。
江戸時代以降
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世帯数と人口
編集2015年(平成27年)10月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[2]。
大字 | 世帯数 | 人口 |
---|---|---|
深溝 | 1,828世帯 | 5,357人 |
人口の変遷
編集国勢調査による人口の推移
1995年(平成7年) | 4,970人 | [5] | |
2000年(平成12年) | 5,134人 | [6] | |
2005年(平成17年) | 5,085人 | [7] | |
2010年(平成22年) | 5,211人 | [8] | |
2015年(平成27年) | 5,357人 | [2] |
施設
編集交通
編集- 電車
- 道路
その他
編集日本郵便
編集脚注
編集- ^ “愛知県額田郡幸田町の字一覧”. 人口統計ラボ. 2019年6月13日閲覧。
- ^ a b c 総務省統計局 (2017年1月27日). “平成27年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 2019年3月23日閲覧。
- ^ a b “郵便番号”. 日本郵便. 2019年6月10日閲覧。
- ^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2019年6月10日閲覧。
- ^ 総務省統計局 (2014年3月28日). “平成7年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 2019年3月23日閲覧。
- ^ 総務省統計局 (2014年5月30日). “平成12年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 2019年3月23日閲覧。
- ^ 総務省統計局 (2014年6月27日). “平成17年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 2019年3月23日閲覧。
- ^ 総務省統計局 (2012年1月20日). “平成22年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 2019年3月23日閲覧。
- ^ “郵便番号簿 2018年度版” (PDF). 日本郵便. 2019年6月10日閲覧。