江﨑真澄

日本の政治家(1915−1996)

江﨑 真澄(えさき ますみ、1915年大正4年〉11月23日 - 1996年平成8年〉12月11日)は、日本政治家衆議院議員(17期)、総務庁長官通商産業大臣自治大臣防衛庁長官などを歴任した。位階正三位

江﨑 真澄
えさき ますみ
『写真紳士録集 第一集』より
生年月日 (1915-11-23) 1915年11月23日
出生地 日本の旗 日本 愛知県一宮市
没年月日 (1996-12-11) 1996年12月11日(81歳没)
死没地 日本の旗 日本 東京都
出身校 日本大学経済学部卒業
所属政党日本自由党→)
民主自由党→)
自由党→)
(分党派自由党→)
(自由党→)
自由民主党緒方派→無派閥→岸派藤山派水田派田中派→二階堂G)
称号 正三位
勲一等旭日大綬章
子女 三男・江﨑鐵磨(元衆議院議員)
五男・江﨑洋一郎(元衆議院議員)

内閣 第2次中曽根第2次改造内閣
在任期間 1985年12月28日 - 1986年7月22日

内閣 第1次大平内閣
在任期間 1978年12月7日 - 1979年11月9日

内閣 第2次田中角栄内閣
在任期間 1972年12月22日 - 1973年11月25日

日本の旗 第13・28代 防衛庁長官
内閣 第1次池田内閣
第3次佐藤改造内閣
在任期間 1960年7月19日 - 1960年12月8日
1971年12月3日 - 1972年7月7日

選挙区 愛知県第1区(大選挙区制)
旧愛知3区
当選回数 17回
在任期間 1946年4月11日 - 1953年3月14日
1955年2月27日 - 1993年6月18日

その他の職歴
第27代 自由民主党政務調査会長
(総裁:福田赳夫
1977年 - 1978年
第20代 自由民主党総務会長
(総裁:福田赳夫)
1976年 - 1977年)
第7・19代 自由民主党国会対策委員長
(総裁:池田勇人田中角栄
1961年 - 1962年
1974年 - 1974年)
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来歴

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1960年頃の江崎

愛知県一宮市出身。旧制私立東邦商業学校から旧制第八高等学校(現・名古屋大学)に入学。八高に入ってすぐに肺結核にかかり、闘病生活中に小説を書き始める。1934年、雑誌『改造』の懸賞小説に、恋愛小説『長良』を応募し佳作となる。また、禅寺で修行するなどし、八高を中退する。その後、日本大学経済学部に進学する。作家を目指し、横光利一菊池寛に紹介されるが、結局母校である東邦商業学校で教師となった。東邦商業校長の下出義雄は、名古屋にあった大同製鋼の社長でもあったため、下出社長の秘書となる。

1946年の衆議院議員総選挙日本自由党から立候補し、初当選(当選同期に小坂善太郎二階堂進小沢佐重喜石井光次郎坂田道太水田三喜男村上勇川崎秀二早川崇中野四郎など)。自由党の実力者で、農林大臣、自由党幹事長、総務会長を歴任した広川弘禅の忠臣として活躍した。広川が失脚した後は緒方竹虎派に所属し、緒方の死後は、砂田重政の庇護を受けた。砂田の死後、一時的に岸派に所属。

1960年第1次池田内閣防衛庁長官として初入閣する。この年、岸信介に誘われて外務大臣として入閣・政界入りした藤山愛一郎が岸派の一部議員と藤山派を結成した際、同派に参加した。

1971年7月5日、第3次佐藤改造内閣が成立。防衛庁長官に就いた増原惠吉西村直己が立て続けに辞任し、同年12月30日、後任として防衛庁長官に再び就任。同年、村上勇水田三喜男らが水田派を結成した際[1]、江崎もこれに合流した。

1972年第2次田中角栄内閣では、自治大臣国家公安委員会委員長北海道開発庁長官に就任する。1973年自由民主党の初代幹事長代理となり、マスコミに積極的に出演し、田中内閣の党側のスポークスマンとして活躍した。

水田派から田中派へ

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金脈問題の追及を受けて1974年12月9日、田中内閣が総辞職。しかし田中角栄の政治力はいささかも衰えず、1975年6月、江崎は同じ水田派の田村元と共に田中派に入る[2]

ロッキード選挙と言われた1976年12月の総選挙では、田中派に属していたことが影響し、三木派海部俊樹に初めて定数3の愛知県第3区のトップ当選の座を明け渡した[3]。二人の得票に5万票以上の差ができたものの、同月の党役員改選で江崎は自民党総務会長に抜擢された。1977年、自民党政務調査会長に就任。

1978年、公選により自民党愛知県連会長に当選[4]。同年12月に成立した第1次大平内閣通商産業大臣を務めた。

1985年12月に成立した第2次中曽根内閣第2次改造内閣では、総務庁長官対外経済問題・民間活力導入の特命事項担当大臣を務めた。

1987年7月4日竹下登金丸信は田中派会長の二階堂と袂を分かち、経世会を結成[5]。江﨑は田中派(二階堂グループ)に残った。江﨑の片腕だった吉川博参議院議員、大木浩参議院議員らは竹下派に参加し[4]今枝敬雄衆議院議員(旧愛知1区)は竹下派にも二階堂グループにも与せず、中立派の道を選んだ[6]。しかしその今枝も2か月も経たないうちに竹下派に参加した[7]

1989年6月8日、二階堂は二階堂グループを離脱。これに伴い同グループの会長に就任[8]

同年8月8日に行われた自民党総裁選挙で、最大派閥の竹下派は自派候補の擁立を見送り、河本派海部俊樹を担ぐ道を選んだ[9]。総裁選の候補者は海部のほか、宮澤派の支援を受けた二階堂グループの林義郎、安倍派の石原慎太郎の3人。県下の国会議員は一斉に海部の推薦人となったが、江﨑は林の推薦に回らざるをえず、吉川らとの溝は一段と深まった[4]

同年9月21日、一宮市長の森鉐太郎が在職中に死去[10]。これに伴う一宮市長選で江﨑は市助役の福島義信を擁立するが、海部首相の推す神田真秋に敗れ[11]、地元の愛知3区内でも気まずい雰囲気が生まれた[4]

選挙違反、自民党県連会長を退任

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1990年2月18日の第39回衆議院議員総選挙で17期目の当選を果たす。翌2月19日、江﨑の公設第二秘書が買収容疑で逮捕[12]。2月22日、一宮市今伊勢地区の後援会長が逮捕[13]。2月23日、元佐織町議会議長の矢田潔が逮捕[14]。3月2日、蟹江町議会議員の鈴木政一と弥富町議会議員の伊藤敏夫が逮捕[15]。多数の逮捕者を出すが、自身は刑事罰を免れた[注 1]

同年3月8日、林義郎が宮澤派に移ると[21]、二階堂グループはついに江﨑と山下元利の二人だけになった[22]

また、選挙終了と同時に、旧愛知5区村田敬次郎が「あちこちから県連会長選立候補の打診があった」と次期県連会長の選挙について意欲を見せた。一気に江﨑続投か、村田登板かの動きが本格化した。村田陣営内では「この際、選挙ですっきり決着をつけた方がいい」という主戦論が根強かったが、県連幹部から選挙回避を模索する動きが出る。村田の所属する清和会安倍晋太郎会長が村田に「江﨑さんとよく話し合うように」と伝えたことから、江﨑と村田は3月6日、7日に会談を重ね、江﨑が村田に禅譲する形で決着がついた[4]。3月、自民党愛知県連会長を退任[23]

1992年12月初め、次期衆院選には出馬せず、地盤は三男の江﨑鉄磨に譲る意向を表明した[24]

1993年7月の総選挙で三男の鉄磨は新生党公認で立候補し初当選した。これに伴い政界を引退。引退後は、日本武道館会長として愛知と東京を往復する生活だったが、1996年夏頃から体調を崩していた。

1996年12月11日、多臓器不全のため東京都内の病院で死去[25]。81歳没。

人物

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  • 江﨑は自由党系の広川派、緒方派を別として藤山派、水田派と傍流とみなされる中間派に長年所属して、口八丁手八丁の万能選手と評される一方で、弁舌と器用さに対してやっかみもあり、能力ほど評価されなかったと言われている[要出典]
  • 1974年12月に総辞職に追い込まれた田中内閣であったが、田中派の結束は固く、衆議院60人、参議院35人、計95人から一人も脱ける者はいなかった。減らないどころか、1975年6月の江﨑、田村元の加入により逆に増えたことで、マスコミはこれを大きく取り上げた。「なぜ、かくも立派な方々が金脈問題を見て見ぬふりをするのか不思議で仕方がない」として、記者が江﨑に田中派加入の理由を尋ねると江崎はこう答えた[26]
そのグループに協力することが悪いこととは思わん。そこんところ、ひとつ、スラーッととってもえらんですか。一代議士としては大きな集団で政治力を発揮しようと考えるのは当り前でしょう。こういうことは、そうむずかしく考えてはいかん。ね、わかってきたでしょう。 — 『週刊新潮』1975年7月10日号、「さすが玄人、田中派代議士たちの『金と権力』への嗅覚」
その後江﨑は1978年から1990年まで自民党愛知県連会長を務め、地元で長く権勢を振るった[4][23]
田中派の総裁候補は、一に二階堂進、二に江﨑真澄、三に後藤田正晴だ。順序を間違ってはだめだ。田中角栄は話を聞かないと若い連中は言うが、これからは『賢者は聞き、愚者は語る』でいく。もっと若い連中の話を聞くつもりだ。
こう断言したものの、これは田中が世代交代を望まないゆえの時間稼ぎから出た方便であったと言われている。江﨑が歴任したポストは総裁候補級だったが、田中派では外様であったこと、また年齢的にも田中より年長で二階堂より年少という立場であったことから、江﨑を本気で擁立しようとする勢力は田中派内には特に存在しなかったと言われている[要出典]。田中はこのスピーチから2日後の2月27日、脳梗塞で倒れ、それとともに一切の政治力を失った[28]
  • 田中の金脈問題追及で名を馳せたジャーナリストの児玉隆也が1975年5月22日に38歳で病死すると、東宝で伝記映画の企画が持ち上がる。タイトルは『愛のとこしえ』に決まり、今井正が監督することで製作準備が始まったところ、江﨑ら複数の政治家が圧力をかけ、これを中止させた。製作担当副社長の藤本真澄は同年10月に同職を辞職した[29][30][31]
  • 一宮市印田通三丁目に住んでいた[25]

元秘書

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脚注

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注釈

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  1. ^ 1990年2月の総選挙では、愛知県下の5つの選挙区で以下の6人の自民党候補が選挙違反事件を起こした。しかしいずれも無事当選を果たし、自身が罪に問われることもなかった。

出典

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  1. ^ 創立者 水田三喜男 | 城西大学
  2. ^ 立花隆『田中角栄研究 全記録(上)』講談社文庫、1982年8月15日、272頁。
  3. ^ 坂井克彦「乱戦の断面 ダブル選挙 '80 疑心暗鬼 愛知三区の江崎、海部両氏」 『中日新聞』1980年5月25日付朝刊、11版、22面。
  4. ^ a b c d e f 『中日新聞』1990年3月8日付朝刊、県内版、16面、「党分裂回避にホッ 自民県連会長の“円満禅譲” 駆け引き、思惑交錯 派閥対立や一宮市長選 江崎体制にきしみ」。
  5. ^ 安藤俊裕 (2011年8月28日). “田中角栄に反旗、竹下派旗揚げ 「政界のドン」金丸信(5)”. 日本経済新聞. https://www.nikkei.com/article/DGXNASFK1902K_V20C11A8000000/ 2020年8月2日閲覧。 
  6. ^ 朝日新聞政治部 編『田中支配とその崩壊』朝日新聞社〈朝日文庫〉、1987年9月20日、24-25頁。ISBN 978-4022604729 
  7. ^ 『国会便覧 昭和62年8月新版』(第76版)日本政経新聞社、1987年9月1日、333-336頁。 
  8. ^ 『中日新聞』1989年6月9日付朝刊、2面、「木曜ク後任会長に江崎氏」。
  9. ^ 奥島貞雄『自民党幹事長室の30年』中公文庫、2005年9月25日、233頁。 
  10. ^ 『一宮タイムス』1989年9月22日、1面、「森一宮市長が死亡 入退院、高齢で衰弱」。
  11. ^ 『中日新聞』1989年11月13日付夕刊、1面、「一宮市長に神田氏 海部派に軍配 福島氏に大差で」。
  12. ^ 『中日新聞』1990年2月20日付朝刊、31面、「江崎氏の秘書逮捕 愛知3区の選挙違反 買収、2人に40万円余」。
  13. ^ 『中日新聞』1990年2月23日付朝刊、31面、「地区後援会長も逮捕 愛知三区、江崎派違反 秘書から現金10万円」。
  14. ^ 『中日新聞』1990年2月24日付朝刊、30面、「元佐織町議長も逮捕 愛知三区江崎氏違反」。
  15. ^ 『中日新聞』1990年3月3日付朝刊、31面、「町議2人を逮捕 江崎氏違反」。
  16. ^ a b 『中日新聞』1990年2月22日付朝刊、31面、「田辺氏(愛知一区)浅野氏(愛知五区)の秘書も」。
  17. ^ 『中日新聞』1990年2月22日付朝刊、31面、「愛知二区選挙違反 丹羽氏の妻と長男逮捕 春日井市議らに現金 全員が返却」。
  18. ^ 『中日新聞』1990年2月20日付朝刊、31面、「愛知2区でも逮捕者 久野派の前町議」。
  19. ^ 『中日新聞』1990年2月21日付朝刊、31面、「後援会役員 買収で逮捕 愛知二区久野派」。
  20. ^ 『中日新聞』1990年2月27日付朝刊、11版、31面、「杉浦氏派違反の後援会事務局長 強引に金権指揮 怖さ知らず〝実弾攻勢〟 63年の市長選で選対幹部が分裂 初めて表舞台に」。
  21. ^ 『朝日新聞』1990年3月8日付朝刊、2面、「林義郎氏、宮沢派に加入へ」。
  22. ^ 『国会便覧 平成2年2月新版』日本政経新聞社、1990年4月10日、342-345頁。 
  23. ^ a b 『中日新聞』1990年3月18日付朝刊、県内版、16面、「自民党県連大会 すんなり村田新会長 推薦人、江崎氏は最高顧問に」。
  24. ^ 『中日新聞』1992年12月4日付夕刊、1面、「江崎元副総理 引退へ 愛知県議に意向伝える 後継は三男・鉄磨氏」。
  25. ^ a b 『中日新聞』1996年12月11日付夕刊、1面、「通産相、自治相...入閣5回 江崎真澄氏死去 81歳」。
  26. ^ 立花隆『田中角栄研究 全記録(上)』講談社文庫、1982年8月15日、271-273頁。
  27. ^ 小林吉弥『愛蔵版 角栄一代』セブン&アイ出版、2018年3月。ISBN 978-4860087609 
  28. ^ 立花隆『巨悪vs言論―田中ロッキードから自民党分裂まで』文藝春秋、1993年8月15日、331頁。 
  29. ^ 立花隆『田中角栄研究 全記録(上)』講談社文庫、1982年8月15日、346-351頁。 
  30. ^ 春日太一著『仁義なき日本沈没 東宝vs.東映の戦後サバイバル』新潮新書p245-247
  31. ^ 第76回国会 衆議院 予算委員会 第8号 昭和50年10月29日”. 国会会議録検索システム. 2020年7月23日閲覧。
  32. ^ ご案内 - JBAの歩み - 日本吹奏楽指導者協会
  33. ^ *秋山紀夫『JBA 日本吹奏楽指導者協会 30年史 昭和42年(1967)〜平成8年(1996)』(初)日本吹奏楽指導者協会、1996年6月15日、65頁。 
  34. ^ 日本音楽財団の歩み(1994年度〜2003年度) 71頁 - 日本音楽財団

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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