櫛羅藩
櫛羅藩(くじらはん)は、大和国葛上郡櫛羅村(現在の奈良県御所市櫛羅)を居所として、江戸時代幕末期から廃藩置県まで存在した藩。1万石を治める譜代大名の永井氏が、1863年に領内に櫛羅陣屋を設けて成立した。
永井氏は1680年より大和国内で1万石を領していたが、葛下郡新庄村(現在の奈良県葛城市新庄)を居所と公称しており(17世紀前半まで、新庄には桑山氏の藩があった)、1863年以前の永井氏の藩は新庄藩と称される。ただし永井氏は定府の大名であり、新庄村には実際に陣屋が置かれたとは伝えられておらず[1]、そもそも新庄村は藩領ではなかった[2]。書籍によっては永井氏の藩を入封時にさかのぼって「櫛羅藩」と扱うこともある[3][注釈 1]。また「櫛羅」はもともと「倶尸羅」と記された地名で[3]、藩名も倶尸羅藩とされることもある[3]。
歴史
編集大和新庄藩永井家
編集永井家はもと丹後宮津藩7万3000石の藩主であったが、延宝8年(1680年)に増上寺で行われた徳川家綱の法要中に、永井尚長が平素不仲であった志摩鳥羽藩主内藤忠勝に刺し殺されるという事件が発生した[6][7]。宮津藩永井家・鳥羽藩内藤家はともに領地を収公されたが[6]、永井家は尚長の弟である永井
『寛政譜』では、直円は「大和国新庄において」1万石が与えられたとしている[8][注釈 4]。ただし延宝8年(1680年)時点では新庄を居所として1万1000石の大名・桑山一尹が存在しており(天和2年(1682年)に改易)、「新庄藩」(新庄が居所と公称する大名)には2年間の重複期間が生じることとなる[10]。
天和3年(1683年)以降の『武鑑』において永井家の居所は新庄とされているが[11]、桑山家改易後に新庄の町は幕府領となっており、永井家が桑山家時代の陣屋や武家屋敷をそのまま利用したとは考え難い[11]。なお、永井家は定府の大名であり[3]、「国元」に大名の住まいがあったわけではない。
永井家の知行地管理の役所は、新庄から2km離れた葛上郡松本村(現在の御所市東松本・元町付近)に存在していた[11]。
櫛羅陣屋の建設
編集文久3年(1863年)、大和新庄藩の第8代藩主永井直壮は、幕府による文久の改革の一端である参勤交代制度改革の余波を受けて、陣屋を櫛羅に新設したことから、櫛羅藩を立藩した。櫛羅は藩領の中でも特に栄えていたところで、要害の地でもあったことが理由だったとされている。直壮は領民の移住や集住を奨励し、藩名も正式に櫛羅藩と改めたが、慶応元年(1865年)8月19日に死去し、跡を永井直哉が継ぐ。直哉は翌年3月、歴代藩主として初めて藩領に入部したが、まもなく明治維新を迎える。そして明治2年(1869年)6月24日の版籍奉還で直哉は櫛羅藩知事となる。
櫛羅県
編集明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県によって櫛羅藩は廃止されて櫛羅県となり[12]、同年11月22日に奈良県に編入された[12]。
歴代藩主
編集永井家
編集譜代 1万石
領地
編集分布と変遷
編集幕末の領地
編集櫛羅県の管轄地
編集「櫛羅県史(明治8年調)」によれば、管轄地は以下の通り[13]。
『角川日本地名大辞典』によれば、葛上郡のうち8村・葛下郡のうち3村・忍海郡のうち11村とある[12]。
地理
編集櫛羅
編集陣屋の置かれた櫛羅は、もとは「倶尸羅」と称された土地であり[14][15]、中世には国民(衆徒)の倶尸羅氏が本拠とした[14]。
延宝8年(1680年)からは永井家領となった[15]。
脚注
編集注釈
編集- ^ 『藩と城下町の事典』は「布施藩」「新庄藩」「櫛羅藩」を別項目としており、1600年成立した布施藩が桑山一直のとき居所を移して新庄藩となり1682年に廃藩、櫛羅藩は1680年に永井直円が櫛羅において1万石を与えられて立藩、1863年にはじめて櫛羅に陣屋を築き「これまでは新庄藩といわれていたが、この時から櫛羅藩と称された」とする。[4]。『角川新版日本史辞典』附録「近世大名配置表」は「布施」「新庄」「倶尸羅」の3藩を載せ、1600年に成立した布施藩が1606年年に新庄に移転し1682年に桑山一尹除封、これと重複する形で1680年に永井直円が新庄に入封し、1863年に倶尸羅に居所を移して新庄藩は廃藩とする[5]。
- ^ 赤丸は本文内で藩領として言及する土地。青丸はそれ以外。
- ^ 仮に御所市元町=旧西松本村に所在する御所市中央公民館の座標を示す。
- ^ 『寛政譜』編纂時の藩主・永井直方も「新庄に住す」とされている[9]。
出典
編集- ^ a b “新庄藩(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2024年8月8日閲覧。
- ^ “新庄村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2024年8月8日閲覧。
- ^ a b c d e “櫛羅藩(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2024年8月8日閲覧。
- ^ 『藩と城下町の事典』, p. 437.
- ^ 『角川新版日本史辞典』, p. 1316.
- ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第六百十九「永井」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.274。
- ^ “22 鳥羽藩内藤氏の改易”. 歴史の情報蔵. 三重県. 2024年8月1日閲覧。
- ^ a b c 『寛政重修諸家譜』巻第六百十九「永井」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.275。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第六百十九「永井」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.276。
- ^ 土平博 2019, pp. 55–56.
- ^ a b c 土平博 2019, p. 56.
- ^ a b c “櫛羅県”. 角川日本地名大辞典. 2024年8月8日閲覧。
- ^ 『櫛羅県史』, 3-4/28コマ.
- ^ a b “倶尸羅郷(中世)”. 角川日本地名大辞典. 2024年8月8日閲覧。
- ^ a b “倶尸羅村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2024年8月8日閲覧。
参考文献
編集- 土平博「大和新庄藩の陣屋と桑山氏の改易に伴うその跡地利用」『奈良大学紀要』第47号、2019年。CRID 1050859370518691712。
- 二木謙一監修、工藤寛正編『藩と城下町の事典』東京堂出版、2004年。
- 『角川新版日本史辞典』角川学芸出版、1996年。
- 『奈良県史料』(国立公文書館デジタルアーカイブ)
- 『櫛羅県史(明治8年調)』 。
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