柳原資明
鎌倉時代後期から南北朝時代の公卿。日野俊光の四男。母は三位局(亀山院女房)。正二位・権大納言、院別当。柳原家の祖・初代。子に柳原宗光-慶子(典侍)
柳原 資明(やなぎわら[1] すけあきら)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿。藤原北家真夏流日野家、権大納言・日野俊光の四男。官位は正二位・権大納言。「柳原殿」と称される邸宅に住んでいたため、柳原を家名とした。柳原家の祖。
時代 | 鎌倉時代後期 - 南北朝時代 |
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生誕 | 永仁5年(1297年) |
死没 | 文和2年/正平8年7月27日(1353年8月26日) |
別名 | 柳原殿 |
官位 | 正二位、権大納言 |
主君 | 後伏見天皇→後二条天皇→花園天皇→後醍醐天皇→光厳天皇→光明天皇→崇光天皇→光明上皇→崇光上皇 |
氏族 | 藤原北家真夏流日野家→柳原家 |
父母 | 父:日野俊光、母:三位局 |
兄弟 | 日野資名、日野資朝、資明、賢俊 |
妻 | 源康世娘 |
子 |
宗光、武者小路教光、土御門保光、 忠光、光済 |
経歴
編集正安3年(1301年)に従五位下に叙任され、文保元年(1317年)に花園天皇の蔵人に任じられて以後は、専ら持明院統の天皇・上皇に仕えた。後に右大弁・左大弁・参議を歴任後、光厳天皇の下で正三位権中納言にまで上るが、鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇の建武の新政によって昇進人事を無効とされると激しく反発した。
足利尊氏によって光明天皇が擁立され光厳上皇の院政が開始されると、改めて権中納言に任じられて、以後北朝の有能な実務官僚として活躍した。建武4年/延元2年(1337年)に権大納言に上った。貞和2年/正平元年(1346年)に一旦は引退したものの、2年後には光明上皇の、さらに観応の擾乱後には崇光上皇の別当を務めた。
系譜
編集脚注
編集参考文献
編集- 『平成新修旧華族家系大成:下巻』霞会館編、吉川弘文館、1996年。
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