本多忠良
本多 忠良(ほんだ ただなが)は、江戸時代中期の大名。幕府では側用人、老中を務めた。越後国村上藩の第2代藩主、三河国刈谷藩主、下総国古河藩の初代藩主。官位は従四位下・侍従、中務大輔。忠勝系本多家宗家8代。
本多忠良自画像 | |
時代 | 江戸時代中期 |
生誕 | 元禄3年(1690年) |
死没 | 寛延4年7月15日(1751年9月4日) |
改名 | 忠隆(初名)、忠良 |
別名 | 権次郎、監物(通称) |
戒名 | 自学院殿満誉了海全性大居士 |
官位 | 従四位下、侍従、中務大輔 |
幕府 | 江戸幕府側用人、老中 |
主君 | 徳川家宣→家継→吉宗→家重 |
藩 | 越後村上藩主→三河刈谷藩主→下総古河藩主 |
氏族 | 本多氏(平八郎家) |
父母 |
父:本多忠英、母:錦織八郎太夫の娘 養父:本多忠孝 |
兄弟 | 忠良、忠方、忠辰、忠強、花房職勝正室 |
妻 | 正室:本多政利の娘・勝 |
子 | 忠敞、忠亮、忠寛、水野忠辰正室ら |
生涯
編集本多平八郎家の分家筋にあたる播磨国山崎藩主・本多忠英の長男として誕生。宝永6年(1709年)、15万石の本家当主・本多忠孝が12歳で無嗣のまま死去し、本来であれば断絶となるところを、とくに幕命により、分家筋の忠良に継がせることとなった[1]。ただし、藩主死去後の急養子の形であるため、忠良相続後まもなく、10万石減封の上で越後村上から三河刈谷に転封となっている[1]。
幕府では宝永7年(1710年)に6代将軍・徳川家宣より側用人に抜擢され、翌年には侍従に上げられて席次は老中に次ぐと定められた。正徳2年(1712年)に同じ5万石で三河刈谷から下総古河に移封となる[1]。7代将軍・家継が死去し、享保元年(1716年)に紀州藩から徳川吉宗が8代将軍に就任すると側用人を解職されて帝鑑間席に戻ったが、忠良は平八郎家の嫡流であるとして、5万石ながら逆に10万石の格式を許された[1]。
享保19年(1734年)には西の丸老中、翌年には本丸老中となり[1]再び国政の表舞台に復帰した。延享3年(1746年)に老中職を退き、宝暦元年(1751年)に古河藩主在任のまま死去した[1]。
年譜
編集系譜
編集父母
正室
- 勝 ー 本多政利の娘
子女