有馬 一純(ありま かずずみ)は、江戸時代後期の越前国丸岡藩の世嗣。官位肥前守。様々な事情のため幾度も改名した(後述)。

 
有馬一純
時代 江戸時代後期
生誕 寛政元年6月29日(1789年7月11日
死没 天保5年5月23日(1834年6月29日
改名 時之丞、諸之丞、有馬一純、島津久亮、久昵
別名 蔵人、左近(通称
戒名 本光院殿瑞巌永祥大居士
墓所 鹿児島県鹿児島市福昌寺
官位 肥前守
越前丸岡藩世嗣
氏族 島津氏肥前有馬氏
父母 島津重豪、石井氏
有馬誉純
兄弟 敬姫広大院島津斉宣奥平昌高
島津忠厚一純孝姫黒田長溥
南部信順、親姫、淑姫、桃令院ら14男12女
有馬誉純娘・国子
冬姫、善次郎
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生涯

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寛政元年(1789年)、薩摩藩主・島津重豪の子として江戸の薩摩藩芝邸にて誕生した。母は側室・石井氏。初名は時之丞。翌年に「重豪四男」として公式に届けられた。享和3年(1803年)に諸之丞と改名。

文化元年4月10日(1804年5月19日)、丸岡藩5代藩主・有馬誉純の婿養子となった。正室は誉純の娘国子[要出典]。同年同月27日には丸岡藩江戸藩邸に入り「有馬蔵人一純」と改名した。同年12月16日(1805年1月16日)には諸大夫に列せられ、肥前守となる。

ところが、文政2年2月17日(1819年3月12日)に、病弱を理由として家督相続前に廃嫡、離縁された。そのため有馬家を出て島津家の部屋住となった上、「島津左近久亮」とまた改名している。さらにその3年後の文政5年(1822年)には「久昵」と改名した。

天保5年(1834年)、田浦にて死去。墓所は福昌寺、法名は「本光院殿瑞巌永祥大居士」。

正室・国子との間に一人娘・冬姫を儲けており、種姫は祖父・誉純の養女となって有馬徳純の正室となった[要出典]。また、島津家に戻ってからの文政6年に尾張屋新蔵の娘との間に善次郎なる息子を儲け、兄・島津斉宣の養子とされたが、誕生からわずか1か月で没している。

参考文献

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  • 「近秘野艸」「麟址野艸」(『鹿児島県史料』「伊地知季安著作史料集六」所収)