斎藤巳之吉

明治時代後期から昭和時代の政治家

斎藤 巳之吉(さいとう みのきち、1881年明治14年)9月14日[1] - 1965年昭和40年)2月17日[1])は、明治時代後期から昭和時代の政治家山形県酒田市長

経歴

編集

斎藤茂助の四男として[2]山形県飽海郡大町村(西平田村を経て現酒田市地内)に生まれ、社会事業家・斎藤千里の婿養子[注 1]となる[1]専修大学を卒業し、新潟県官房主事、北魚沼郡長、佐渡支庁長、赤十字新潟支部病院事務長などを歴任した[2]。ほか、郷里出身の高級官僚・太田政弘の知遇を受け、台湾、朝鮮などに赴任した[1]

1933年(昭和8年)初代酒田市長の中里重吉に招かれ同市助役に就任[1]1937年(昭和12年)10月、中里の引退した後を受けて酒田市長に就任した[1]。戦時下の市政に手腕を発揮し、酒田港築港整備、軍需産業の誘致、学童疎開建物疎開による空襲対策などに尽力した[1]。養父の後を継いだ敬虔なカトリック教徒だった[1]。墓所は酒田海晏寺[1]

戦後、「翼賛郡支部長」のため公職追放となった[3]

脚注

編集

注釈

編集
  1. ^ 『人事興信録 第12版 上』では斎藤綾の養子。

出典

編集
  1. ^ a b c d e f g h i 庄内人名辞典刊行会 1986, 313頁.
  2. ^ a b 人事興信所 1939, サ90頁.
  3. ^ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、516頁。NDLJP:1276156 

参考文献

編集