扶風郡
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魏晋および北魏の扶風郡
編集漢代の右扶風を前身とした。三国の魏のとき、扶風郡と改められた。扶風郡は雍州に属した。
僑置扶風郡
編集南北朝時代の南朝においては、扶風郡の本土が北朝の統治下にあったため、僑郡の扶風郡が置かれた。
雍州の扶風郡
編集はじめ襄陽に郡治が置かれ、後に筑陽に移された。南朝宋のとき、扶風郡は筑陽・郿・汎陽の3県を管轄した[3]。南朝斉のとき、扶風郡は筑陽・郿・汎陽の3県を管轄した[4]。
西扶風郡
編集東晋の末年、三輔の流民を集めて漢中に西扶風郡を僑置された。南朝宋のとき、西扶風郡は秦州に属し、郿・武功の2県を管轄した[3]。南朝斉のとき、西扶風郡は郿・武功の2県を管轄した[4]。
北扶風郡
編集455年(南朝宋の孝建2年)、秦州・雍州の流民を集めて北扶風郡を僑置された。北扶風郡は秦州に属し、武功・華陰・始平の3県を管轄した[3]。
益州の扶風郡
編集隋の扶風郡
編集487年(太和11年)[2]に北魏によって立てられた岐州を前身とする。
607年(隋の大業3年)、隋によって州が廃止されて郡が置かれると、岐州は扶風郡と改称された。扶風郡は雍・岐山・陳倉・虢・郿・普潤・汧源・汧陽・南由の9県を管轄した[5]。
618年(武徳元年)、唐により扶風郡は岐州と改められた。742年(天宝元年)、岐州は扶風郡と改称された。757年(至徳2載)、扶風郡は鳳翔府と改称され、扶風郡の呼称は姿を消した[6]。