市岡 寿(いちおか ひさし、1893年明治26年)5月26日 - 1963年昭和38年)2月14日)は、日本海軍軍人。最終階級海軍中将

市岡 寿
生誕 1893年5月26日
日本の旗 日本 岐阜県
死没 (1963-02-14) 1963年2月14日(69歳没)
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1914年 - 1945年
最終階級 海軍中将
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経歴

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岐阜県出身。成城中学校を経て、1914年12月、海軍兵学校42期)を卒業し、1915年12月、海軍少尉に任官。海軍大学校で航海学生として学ぶ。第15潜水隊付、「駒橋」航海長、「磐手分隊長、「第51潜水艦」艤装員、「第34潜水艦」長心得、第1潜水戦隊参謀連合艦隊参謀、横須賀鎮守府付、「北上」航海長などを歴任し、1928年12月、海軍大学校(甲種26期)を卒業。

春日」教官、海軍省教育局員、欧米出張、皇族(高松宮宣仁親王)付武官、第24潜水隊司令軍令部副官、「由良艦長、「香取」兼「鹿島」艤装員長、「香取」艦長、連合艦隊司令部付、第6艦隊参謀長、海兵教頭などを歴任し、1941年10月、海軍少将に進級。

太平洋戦争には1942年2月、第2潜水戦隊司令官として出征した。その後、海大教頭、第8潜水戦隊司令官、兼第15根拠地隊司令官(ペナン)、海上護衛参謀副長などを務め、1945年5月、海軍中将となった。海軍潜水学校長兼呉潜水戦隊司令官として終戦を迎え、同年10月に予備役に編入。1947年2月、戦犯容疑で拘留され(容疑については伊号第八潜水艦#国際法違反事件を参照)、裁判において軍令部第一部長であった中澤佑と対立した。同年11月28日、公職追放仮指定を受けた[1]。翌年2月に重労働20年の判決があったが、1958年5月に釈放された。

栄典

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勲章

関連項目

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脚注

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  1. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」19頁。
  2. ^ 『官報』第4705号「叙任及辞令」1942年9月14日。

参考文献

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  • 豊田副武『最期の帝国海軍』世界の日本社
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。