島津用久
島津 用久(しまづ もちひさ)は、室町時代の武将。薩摩国島津氏の分家・薩州家初代当主。出水亀ヶ城主。
時代 | 室町時代 |
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生誕 | 応永18年(1411年) |
死没 | 長禄3年2月29日(1459年4月2日) |
別名 | 好久、持久、通称:三郎九郎、薩摩守 |
戒名 | 龍光院殿松夫道存 |
幕府 | 室町幕府薩摩守護代 |
主君 | 島津忠国 |
氏族 | 島津薩州家 |
父母 | 父:島津久豊 母:伊東祐安の娘(法名:壽山久公大姉[1]) |
兄弟 | 忠国、用久、季久、有久、豊久 |
妻 | 島津忠国の次女(法名:玉泉智芳大姉)[2] |
子 | 国久、延久、芳雲夫人(島津立久室) |
特記 事項 | 実際には宗家当主・薩摩守護職を継承していた時期があったと推測されている。 |
生涯
編集応永18年(1411年)、島津宗家8代当主・島津久豊の次男として誕生。
用久が薩摩守を称したことから、彼の家は「薩州家」と呼ばれた。
兄で島津宗家9代当主・忠国は、本家相続後に領国内で度々反乱が発生したため領地経営に自信を失い妻の実家で隠居した。後世編纂された島津氏の記録では、守護代に任じられた用久は反乱勢力を鎮圧、領内をまとめたとされている。だが、この時期に発給された用久の文書は全て守護の書式であり、反対に守護代が発給する文書が見つかっていないことから、実際には島津氏の家督自体を譲られたと考えられている。だが、家督の譲渡を一時的なものと考えて将来は我が子に譲ろうと考えていた忠国と家中の人望を集めて当主の地位を固めつつあった用久が対立し、更に忠国・用久双方を支持する一揆が形成されるに至った。その後、内紛は用久の勝利で終わったものの、嘉吉元年(1441年)に島津領逃げ込んだ足利義教の弟である義昭の討伐に用久が積極的ではなく、代わりに忠国が討伐に当たったことから室町幕府が介入して、用久は一転して討伐の対象とされてしまう。これに反発する用久とその支持者は激しく抵抗するが、文安5年(1448年)に和解した。その後、忠国は阿久根や出水などを与えて用久との関係を回復させるが、一方で家臣との対立を深め、長禄2年(1458年)頃には家臣の間で用久を擁立して忠国を追放する計画もあった[3]とされる。だが、それが実現する前に長禄3年(1459年)2月29日、死去。享年49。
脚注
編集- ^ 鹿児島県維新史料編さん所 編『鹿児島県史料 旧記雑録前編 2』1980年、385頁。doi:10.11501/9773180 。
- ^ 『鹿児島県史料集 31 (本藩地理拾遺集 上 薩摩国)』1991年、15頁。doi:10.11501/9639814 。
- ^ 『相良家文書』「相良氏山門知行以下由緒書」。
参考文献
編集- 新名一仁『室町期島津氏領国の政治構造』(戎光祥出版、2015年) ISBN 978-4-86403-137-0
- 「永享・文安の薩摩国〈国一揆〉-薩摩国山北国人の反島津闘争-」(原題:「永享・文安の薩摩国〈国一揆〉について-薩摩国山北国人の反島津闘争-」『九州史学』122号(1999年))
- 「嘉吉・文安の島津氏内訌」(原題:「嘉吉・文安の島津氏内訌-南九州政治史上の意義-」『史学研究』235号(2001年))
- 「室町期島津氏〈家中〉の成立と再編」(原題:「室町期島津氏〈家中〉の成立と崩壊-南九州における戦国的状況の出現過程-」日本史史料研究会企画部 編『日本史史料研究会論文集2 戦国・織豊期の西国社会』(2012年))