島津師久
島津 師久(しまづ もろひさ)は、南北朝時代の武将。島津氏6代当主(総州家初代当主)。
時代 | 南北朝時代 |
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生誕 | 正中2年8月16日(1325年9月23日) |
死没 | 天授2年/永和2年3月21日[1](1376年4月10日) |
改名 | 生駒丸(幼名)→師久 |
別名 | 三郎左衛門尉 |
神号 | 貞道廣高男命[2] |
戒名 | 称名寺殿 定山道貞大禅定門 |
墓所 | 鹿児島県鹿児島市池之上町の島津家墓地 |
官位 | 大夫判官[2]、従五位下、上総介[1] |
幕府 | 室町幕府薩摩守護[1] |
主君 | 足利尊氏→義詮→義満 |
氏族 | 島津総州家 |
父母 | 父:島津貞久、母:栴林夫人(大友親時娘)[2] |
兄弟 | 川上頼久、宗久、師久、氏久、光久、氏忠[1] |
妻 | 得祥夫人[2] |
子 | 伊久、碇山久安[2] |
生涯
編集5代当主・島津貞久の三男として誕生。
足利尊氏に属して武功を挙げたため、薩摩国内や肥前国内の地頭に任じられた。父の死の直前である正平18年/貞治2年(1363年)4月、次兄・宗久が早世した為、父から家督と薩摩守護職を継ぐこととなった(大隅守護職は弟・氏久が継ぎ、奥州家の祖となった)。これが総州家の始まりである。その後、家督を子・伊久に譲っている。
天授元年/永和元年(1375年)、今川了俊の謀略で少弐冬資が暗殺されると(水島の変)、この行為に激怒して了俊と対立した。翌年3月、52歳で死去[1]。墓所は初め川内隈之城の称名寺跡にあったが、後に福昌寺跡に改葬された。