山際永三

日本の映画監督、演出家、評論家

山際 永三(やまぎわ えいぞう、1932年7月22日 - 2024年11月28日)は、日本の映画監督演出家評論家石井輝男プロダクション代表[1]日本映画監督協会常務理事。兵庫県神戸市出身。

やまぎわ えいぞう
山際 永三
生年月日 (1932-07-22) 1932年7月22日
没年月日 (2024-11-28) 2024年11月28日(92歳没)
出生地 日本の旗 日本 兵庫県神戸市
死没地 日本の旗 日本 東京都
国籍 日本の旗 日本
民族 日本人
職業 映画監督演出家
ジャンル 映画テレビ映画演劇
活動期間 1955年 新東宝入社
1961年 監督昇進
1969年 国際放映退社
主な作品
コメットさん
帰ってきたウルトラマン
ウルトラマンA
ウルトラマンタロウ
サンキュー先生
テンプレートを表示

人物・来歴

編集

志賀直哉の異母妹・淑子と山際太郎の次男として、神戸市に生まれる。疎開先だった福島県会津若松市を出身と記載することが多い[2]が、実際はほとんど東京で過ごしていた。麻布学園時代に同級生の佐藤重臣と、映画評論同人誌を発行。慶應義塾大学文学部フランス文学科卒業。孫は男劇団 青山表参道Xへの所属経験を持つ俳優の山際海斗[3]

新東宝映画製作所入社後、内田吐夢監督の『たそがれ酒場』(1955年)にてフォース助監督を務める。その後は、石井輝男監督、三輪彰監督[2]らに師事した。

1961年の新東宝倒産後、同社のプロデューサー・佐川滉の佐川プロダクション製作で、大宝[4]が配給した『狂熱の果て』にて監督デビュー。その傍ら、「映画評論」に評論を発表し、小津安二郎黒澤明木下恵介今井正ら巨匠監督を批判している。1964年以降は、国際放映の専属として、多くのテレビ映画を監督。1969年フリーランスになる。

1970年、『現代日本映画論大系 3』(冬樹社)に論文『チグハグなぼくらのたたかい』が収録される。

脚本家の市川森一TBSプロデューサーの橋本洋二とで「一二三トリオ」と呼ばれ、『コメットさん』に始まる「ブラザー劇場」の一連のテレビ映画(国際放映製作)や、後の第二期ウルトラシリーズでも数多く監督する。『帰ってきたウルトラマン』に参加していた際、橋本の誘いで『シルバー仮面』に参加するため、同番組を3クールで降板している[5]

オウム問題や拉致問題に関する社会評論を展開している。首都圏女性連続殺人事件狭山事件などの冤罪支援運動や死刑制度廃止運動、被逮捕者の人権擁護運動などでも知られる。オウムに関しては野崎研二弁護士にオウム弁護を持ちかけたのは自分で、横山昭二弁護士解任には役割を果たしてくれたと述べている[6]

2000年代に入ってからは舞台劇の演出を手がけている。

2005年8月12日、石井輝男が死去した際には、葬儀委員長を務め、その後は石井輝男プロダクションの代表を石井から引き継いだ。

2024年11月28日老衰による敗血症のため東京都内の病院で死去[7]。92歳没。

フィルモグラフィ

編集

映画

編集

テレビ映画

編集

特筆以外は監督。

著作

編集
  • 『現代日本映画論大系 3』(1970年、冬樹社)- 共著[9]
  • 『報道被害 11人の告発』(1991年、創出版)- 共著・編著
著者:山際永三・池田理代子・桐生裕子・竹久みち・中西ミツ子・佐川一政八尾恵・草野光子・米原ゆり・三浦和義・神戸エイズ被害者

脚注

編集
  1. ^ 石井プロ公式ホームページの立ち上げに際して(石井輝男プロダクション公式サイト)
  2. ^ a b 映像メディア作家 1991, p. 603.
  3. ^ セイバー 第17章:「古の使者は、光か影か。」”. 仮面ライダーWEB【公式】. 東映. 2021年1月24日閲覧。
  4. ^ 新東宝から分社化した。
  5. ^ 白石雅彦『「ウ���トラマンA」の葛藤』双葉社、2022年6月30日、48頁。ISBN 978-4-5753-1727-5 
  6. ^ 安田さんへの弾圧とオウム問題”. 2020年3月4日閲覧。
  7. ^ "山際永三さん死去 映画監督". 時事ドットコム. 時事通信社. 2024年12月4日. 2024年12月4日閲覧
  8. ^ オムニバスの一編。
  9. ^ 国立国会図書館 NDL-OPACでの「山際永三」検索結果参照。

参考文献

編集

外部リンク

編集