小出英貞
小出 英貞(こいで ふささだ)は、丹波国園部藩4代藩主。吉親系小出家4代。
小出英貞 | |
時代 | 江戸時代中期 |
生誕 | 天和4年2月16日(1684年3月31日) |
死没 | 延享元年11月15日(1744年12月18日) |
別名 | 主税、大学(通称) |
官位 | 従五位下信濃守 |
幕府 | 江戸幕府 奏者番、寺社奉行、西の丸若年寄 |
主君 | 徳川綱吉、家宣、家継、吉宗 |
藩 | 丹波園部藩主 |
氏族 | 小出氏 |
父母 | 小出英利 |
兄弟 | 英貞、英雄、英治、片桐貞経正室ら |
妻 | 松平頼純娘八千 |
子 | 英持、堀直為正室、稲垣昭賢正室 |
生涯
編集3代藩主小出英利の次男。正室は伊予国西条藩主松平頼純の娘であり、第八代将軍徳川吉宗の従姉妹にあたる。
元禄10年(1697年)閏2月1日、江戸幕府第五代将軍徳川綱吉に御目見した。宝永2年(1705年)4月22日、英利の隠居により家督を継いた。このとき、弟の小出英治に1千石を分与した。宝永6年(1709年)4月15日、従五位下・信濃守に叙任された。享保10年(1725年)5月1日に奏者番となり、同年6月11日からは寺社奉行と兼任した。享保17年(1732年)3月1日には西の丸若年寄を拝命した。藩政においては、江戸藩邸に藩校を創設している。
延享元年(1744年)、病気を理由に全ての職を辞そうとしたが、許されないまま11月15日に61歳で死去した。跡を長男の英持が継いだ。