大村襄治
日本の政治家
大村 襄治(おおむら じょうじ、1919年〈大正8年〉3月30日 - 1997年〈平成9年〉12月15日)は、日本の政治家、官僚。衆議院議員(8期、自由民主党)、防衛庁長官(第39代)。父も防衛庁長官を務めた大村清一。
大村 襄治 おおむら じょうじ | |
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生年月日 | 1919年3月30日 |
出生地 |
日本 東京府東京市 (現・東京都) |
没年月日 | 1997年12月15日(78歳没) |
死没地 |
日本 東京都世田谷区 (自衛隊中央病院) |
出身校 |
東京帝国大学法学部法律学科卒業 (現・東京大学法学部) |
前職 | 国家公務員(内務省→自治省) |
所属政党 | 自由民主党(佐藤派→田中派→竹下派) |
称号 |
従三位 勲一等瑞宝章 法学士(東京帝国大学・1941年) |
親族 | 父・大村清一(第2代防衛庁長官) |
第39代 防衛庁長官 | |
内閣 | 鈴木善幸内閣 |
在任期間 | 1980年7月17日 - 1981年11月30日 |
内閣官房副長官(政務担当) | |
内閣 | 第2次田中角栄第1次改造内閣 |
在任期間 | 1973年11月25日 - 1974年11月11日 |
選挙区 | 旧岡山1区 |
当選回数 | 8回 |
在任期間 | 1967年1月30日 - 1990年1月24日 |
経歴
編集東京府出身[1]。旧制東京高等学校卒業。1940年10月に高等試験行政科合格[2]。1941年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、内務省に入省。土木局属[3]。
1945年10月に内務省大臣官房[2]。1947年1月に同省地方局。同年7月に大蔵省主計局。1953年10月に自治庁財政部理財課長(後の地方債課長)。1956年6月に福岡県総務部長。1958年6月に自治庁税務局府県税課長。1959年11月に同庁長官官房調査官。1960年7月に自治省大臣官房調査官。1961年8月に同省大臣官房参事官。
1962年5月に同省官房長。その翌年に同省財政局長となり、その後退官。1963年11月の第30回衆議院議員総選挙に父の地盤を引き継いで旧岡山1区から出馬するも次点で落選。
1967年1月、第31回衆議院議員総選挙で再び旧岡山1区から出馬し初当選。以降8期連続当選。1973年11月、第2次田中角栄第1次改造内閣で内閣官房副長官に就任。以降、大蔵政務次官、自民党副幹事長、自民党安全保障調査会の防衛力整備小委員会委員長などを歴任。防衛族議員の中心的な一人であり、1980年11月の鈴木善幸内閣では防衛庁長官として初入閣を果たした。
1989年春の叙勲で勲一等瑞宝章受章。1990年2月の衆院選で落選し、政界を引退した。
1997年12月15日、肺炎のため東京都世田谷区の自衛隊中央病院で死去、78歳[4]。死没日をもって従六位から従三位に叙される[5]。墓所は小平霊園。
人物像
編集著書
編集- 「GNP1%論の軌跡」(千代田永田書房)
関連人物
編��脚注
編集公職 | ||
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先代 細田吉蔵 |
防衛庁長官 第39代:1980年 - 1981年 |
次代 伊藤宗一郎 |
先代 山下元利 |
内閣官房副長官(政務担当) 1973年 - 1974年 |
次代 梶山静六 |
議会 | ||
先代 小渕恵三 |
衆議院大蔵委員長 1978年 |
次代 加藤六月 |
先代 栗原祐幸 |
衆議院安全保障特別委員長 | 次代 箕輪登 |