夜と霧』(よるときり、: Nuit et brouillard)は、第二次世界大戦中、ナチアウシュヴィッツユダヤ人強制収容所でユダヤ人を虐殺した事実(ホロコースト)を告発した1956年公開のドキュメンタリー映画、記録映画。

夜と霧
Nuit et Brouillard
監督 アラン・レネ
脚本 ジャン・ケイヨールほか(解説台本)
原作 ジャン・ケイヨール
製作 アナトール・ドーマン (Anatole Dauman)
ナレーター ミシェル・ブーケ
音楽 ハンス・アイスラー
撮影 ギスラン・クロケ
サッシャ・ヴィエルニ
配給 日本の旗 日本ヘラルド映画
公開 フランスの旗 1956年
日本の旗 1961年10月20日
上映時間 32分
製作国 フランスの旗 フランス
言語 フランス語
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映画の一シーン

題名は1941年12月7日に出されたヒトラー総統命令英語版夜と霧」に由来する。全32分という短い作品だが、撮影当時の映像のカラーフィルムと、戦時中のモノクロのニュースフィルム・写真が交互に往還するコラージュの手法でナチズムを告発した斬新な表現は、当時、世界に衝撃を与え論争が巻き起こった。日本の初公開時には残虐シーンが過激であるとされて数分のカットをほどこし上映された。監督をつとめたのは、本作で世界的に注目を浴びたアラン・レネ、音楽を担当したハンス・アイスラーはナチに抵抗した作曲家で、敢えて流麗なサウンドをつけている。

この映画ではアウシュヴィッツの死者数を900万人としている、とする誤った説について

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この映画は「ナチスが人間石鹸を作ったり、アウシュヴィッツで900万人もの人々が殺された」[1] と主張していると、ロベール・フォーリソンら修正主義者の一部の人たちは主張している。ゲルマー・ルドルフも、2024年現在、「ゲルマー・ルドルフ著 ホロコースト講義 2023年版」において、「夜と霧 (映画)」の中でアウシュヴィッツで900万人が殺されたと放映していた、と主張している[2]

しかし、「900万人」という数字が触れられているエンディング付近のナレーションの全体は以下の通りである(映画中のナレーションを直接翻訳したもの)。

私が今語りかける中、池と廃墟の氷水が集団墓地の穴を満たしている。

それは冷たく泥だらけで、私たちの記憶と同じくらい濁っている。

戦争は眠りにつくが、片目は常に開いたままだ。

草はブロック周囲の点検地で再び生い茂る。

放棄された村、それでもなお危険が漂う重い空気。

焼却炉はもう使われていない。

ナチスの狡猾さは、今日では子供の遊びに過ぎない。

900万人の死者がこの田園地帯を彷徨っている。

この奇妙な監視塔から、新たな処刑者の到来を警告するために見張りをしているのは、私たちの中の誰なのか?

彼らの顔は本当に私たちと違うのだろうか?

どこかで幸運なカポがまだ生き延びている。復職した将校や名もなき密告者もいる。

信じることを拒んだ者や、一瞬だけ信じた者もいる。

私たちは誠実な目でこれらの廃墟を見渡す。まるで古い怪物が瓦礫の下に永遠に押しつぶされたかのように。

私たちは希望を取り戻したふりをする。イメージが過去へと遠のくにつれ、私たちが収容所の災厄から完全に癒されたかのように。

私たちはそれが特定の時と場所で一度だけ起こったかのように装う。

周囲にあるものに目をつぶり、人類の終わりなき叫びに耳を塞ぐ。

以上の通り、ナレーションでは「900万人の死者」がアウシュヴィッツだけのものだとは一言も述べていない。映画では、このナレーションの背景をアウシュヴィッツの第二収容所であるビルケナウ収容所の映画撮影当時の映像を映し出しているが、この映画では様々な当時の映像をコラージュ的に繋いだ編集となっていて、アウシュヴィッツ以外の強制収容所の映像も、それが特にどこだとは語られずに使用されている。このナレーションの背景にあるビルケナウの映像もそうで、それがアウシュヴィッツ(ビルケナウ)の映像だとは一言も語られていない。アウシュヴィッツの名前が登場するのは映画冒頭付近で他の収容所と共にリストで表示されただけで、それ以外は一度も登場しない。以上のことから、900万人がこの映画全体で扱っていたナチスドイツの強制収容所(いわゆる絶滅収容所を区別していない)すべての犠牲者数を指していることは自明である。なお、この900万人については特にユダヤ人のみに限定されていないことは注意が必要である。

監督のアラン・レネ自身が、2006年に以下のように述べている。[3]

当時受け入れられていた数字は、グローバルな数字で900万人でした。[…] 私たちは具体的な数字を知りませんでした。

映画に助言を与えていた二人の歴史家も、当時、アウシュヴィッツの犠牲者数を900万人と主張したことはない。アンリ・ミシェルが1950年代に編集長を務めていた雑誌『Revue d'Histoire de la Deuxième Guerre Mondiale(第二次世界大戦史のレビュー)』の1954年7月15号では、アウシュヴィッツ司令官のルドルフ・ヘスのニュルンベルク裁判での証言である「ガス室で死んだ人々の数を250万人とし、これに飢えと病気で死んだ50万人の囚人を加えなければならない」を紹介していたし、1956年10月号では、アウシュヴィッツの犠牲者数を400万人と記述していた。同雑誌には、オルガ・ウォームザーも寄稿していたからこれら数字を認識していなかったはずはない。さらに、この二人による著書『Tragédie de la déportation, 1940-1945: Témoignages de survivants des camps de concentration allemands(追放の悲劇 1940-1945:ドイツの強制収容所生存者の証言)』では収容システム全体の犠牲者総数を、「800万人の人々」と記している。[3]

さらに、フランスの歴史家シルヴィ・リンデペルグは、『夜と霧』について綿密な調査を行った。2007年、彼女はこの研究の成果を『夜と霧、歴史映画』(Odile Jacob, 2007)として発表し、こう書いている。[3]

死者900万人という数字は、映画の中ではアウシュビッツ収容所だけのものではなく、強制収容所システムの犠牲者と殺害されたユダヤ人を含めた漠然とした合計である

以上のことから、映画で述べられた900万人がアウシュヴィッツのみの死者数ではないことは明らかである。

また「石鹸」という言葉は1箇所だけナレーションに登場するが、「ナチス」や「ユダヤ人」などの特定はなく、「遺体を使って…しかしもう何も言えない…遺体を使って石鹸を作ろうとした…」と述べられただけである[3]。ナチスドイツによる遺体を使った石鹸の工業的生産はなかったことが確認されているが、ダンツィヒの実験室で試みられていたことはあるとされている[4]

これらの修正主義者の主張の目的は、歴史家の信用を失墜させることにある、との主張がある。[3]

関連作品

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脚注

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関連文献

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  • アラン・レネエ「夜と霧」
    • 針生一郎(編)『全集・現代世界文学の発見 第5』(サブタイトル: 抵抗から解放へ)、学芸書林、1970年

外部リンク

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