南陵県(なんりょう-けん)は、紀元前173年から紀元1世紀初めまで、中国の前漢の時代に置かれたの一つである。現在の陝西省西安市にあった。

歴史

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南陵文帝の母、薄姫の陵墓である。文帝の陵墓である覇陵の南に作られたためこういう[1]。『漢書』地理志によれば、前漢の文帝7年(紀元前173年)に南陵県が置かれた[2]。薄姫が死んだのは子の文帝に遅れること2年、景帝2年(紀元前155年)なので[3]、生前である。県の設置を景帝2年とする学者もいる[4]。都の長安の南東郊外にあった。

所属先は制度の沿革にともなって変わった。設置時には内史の管轄下にあり、建元6年(前135年)に内史が左右に分割された際に右内史の管轄に入った。太初元年(前104年)に京兆尹の管轄になった[5]

平帝元始年間(西暦1年-5年)に、当時大司馬王莽が県の廃止を奏上して裁可された[6]

脚注

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  1. ^ 『三輔黄図』巻之六、陵墓。『三輔黄図校証』147頁。『三輔黄図校釈』頁。
  2. ^ 班固『漢書』地理志第8上。ちくま学芸文庫『漢書』3、277頁。
  3. ^ 『漢書』外戚伝第67上。ちくま学芸文庫『漢書』8、137頁。
  4. ^ 陳力「漢の長安城周辺の集落」、11頁。
  5. ^ 『漢書』地理志第8上。ちくま学芸文庫『漢書』3、276頁。
  6. ^ 『漢書』韋賢伝第43。ちくま学芸文庫『漢書』6、359-360頁。

参考文献

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  • 班固漢書』。小竹武夫訳注『漢書』1 - 8、筑摩書店(ちくま学芸文庫)、1998年。
  • 作者不明『三輔黄図』。陳直『三輔黄図校証』、陝西出版社、1980年。何清谷『三輔黄図校釈』、中華書局、2005年。
  • 陳力「漢の長安城周辺の集落」、『阪南論集』(人文・自然科学編)、第38巻1号、2002年10月。

関連項目

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