半井梧庵
半井 梧庵(なからい ごあん、文化10年6月23日(1813年7月20日)[1] - 1889年(明治22年)1月2日[1])は、江戸時代後期から明治時代にかけての医師[1]・国学者[1]・歌人[2]。伊予今治藩医で、幕末期に伊予一国の地誌『愛媛面影(えひめのおもかげ[3])』を編纂した[4]。この書籍で初めて、伊予国の別名「えひめ」に「愛媛」という漢字が宛てられたとされる[3]。明治期には官吏・神官となった[4]。
号の「梧庵」については「梧菴」の字体でも記される[2]。諱は元美[1][2][注釈 1]・忠見[1][注釈 2]、号は梧庵のほかに伎里之家・碧梧庵[1]。
生涯
編集生い立ち
編集文化10年(1813年)、今治藩医・半井元誠(安立[4]。100石取り[4])の二男として[4]今治に生まれる[5][注釈 3]。幼名は倉吉[5]。文政8年(1825年)に父が死去し[5]、家督を継いだ兄の元幹も天保5年(1834年)に没した[5][注釈 4]。元幹には嗣子がなく、梧庵が半井家を相続することとなった[5]。
母を伴って京都に上り[5]、荻野徳輿(荻野元凱の子)に就いて医学を修めた[1][2][注釈 5]。また、国学・和歌を足代弘訓[1][2]・海野游翁[2]に学んだ。
今治藩医として
編集天保10年(1839年)1月、27歳の時に今治藩医として召し出され、13石2人扶持を給される[5]。弘化3年(1846年)に100石の知行を受ける[5]。
医学の師である荻野徳輿の父・元凱は、医術に西洋医学を取り入れ[8][9]、漢蘭折衷家と言われた人物である[9]。梧庵の医術も漢洋を折衷したものであったと評される[5]。
今治藩医の菅周庵は適塾で蘭学を修めた人物であるが、疱瘡の流行を受けて嘉永2年(1849年)に長崎で種痘の技術を習得し、藩内の種痘計画を立てた[7]。多くの医師が種痘を危惧し逡巡する中で、梧庵は周庵を支持し、今治藩では嘉永2年(1849年)に藩民一般にはじめて牛痘��種が行われた[7]。今治藩での種痘実施は、全国的に最も早い事例の一つという[7]。
梧庵は国学者・歌学者としても活動し、地域の歌壇の重鎮であった[10]。安政年間には伊予一国の歌人の歌を集録した『ひなのてぶり』を刊行した[5][2]。門弟には今治の久松長世・田窪勇雄・高橋茂樹・大沢如雲・森田正憲・永野良準・岡直約[10]、大洲の近田冬載[10]らがいる。
また、『伊予国風土記』が散逸したことを憂えた梧庵は伊予国各地を探訪し、慶応2年(1866年)に『愛媛面影』の原稿を完成させた[5]。「類書中の白眉」として高く評価されている[11]。この書籍は、『古事記』に記された伊予国の別名「愛比売(えひめ)」に「愛媛」の漢字を宛てた初めての例とされ[3]、このことから梧庵が「愛媛県の名付け親」と語られることがある[12][注釈 6]。
洋学に通じた側面としては、上述の通り種痘への協力が挙げられるが、このほかにも梧庵は薬草を栽培して洋薬をつくり、舎密術(化学)を講じたという[7]。また、写真の撮影も行った[15]。慶応3年(1867年)に撮影された[16]今治城の写真は、現存する愛媛県最古の写真ともされる[15]。1985年以後再建がなされた今治城の櫓群は、梧庵撮影の古写真をもとに復元されている[17]。
明治時代
編集明治元年(1868年)、藩校克明館の助教となり、皇漢学・兵法・医学を教えた[5]。
廃藩置県ののち、明治5年(1872年)8月17日付で「石鉄県地理掛」に就任している[4]。1873年(明治6年)には石鎚神社の祠官(第3代[4])となり[5]、1881年(明治14年)まで務めている[4]。
1882年(明治15年)に京都へ移住し[4]、晩年は京都で過ごした[5]。1889年(明治22年)1月2日死去、77歳[1]。京都の神楽岡に墓地があり[4]、今治の海禅寺に歯髪塚がある[4]。
おもな著作
編集- 『歌格類選』
- 歌学書[2]。詞の用法を検討したもの[2]。正続4冊で、正編2冊は嘉永5年(1852年)に、続編2冊は翌嘉永6年(1853年)に編まれた[2]。
- 『ひなのてぶり』[2](鄙のてぶり[1]、鄙の天布利[5])
- 幕末期の伊予一国[注釈 7]の歌人の和歌を集めた撰集[2]。初編上下2冊は安政元年(1854年)、二編上下2冊は安政4年(1857年)に刊行された[2]。
- 『西行紀行』
- 『愛媛面影』の取材のため南予を訪問した際の紀行文で、歌も多く収める[2]。
- 『愛媛面影』
- 伊予国一国を扱った本格的地誌[12]。序文によれば慶応2年に原稿を完成させた[5]。刊行は明治2年(1869年)[12]。自ら旧跡を訪問し、史料を探渉して編纂されたもので、多くの図絵が挿入されている[18]。
- 『花の家苞』
- 明治11年(1878年)に吉野を訪ねた際の紀行文[2]。
- 『月が瀬紀行』
- 明治16年(1883年)の紀行文[2]。
家族
編集夫人は、今治藩医池山見龍の娘・多満子[5]。梧庵が今治藩医として召し出された天保10年(1839年)の6月に結婚した[5]。
- 長男:半井元章 - 天保12年(1841年)生まれ[5]、文久3年(1863年)早世[5]。
- 次男:半井真澄 - 天保14年(1843年)生まれ[5]。医業を継ぐが、1875年(明治8年)京都護王神社の宮司に任じられて今治を去る[5]。
- 三男:半井栄(半井吹城) - 嘉永3年(1850年)生まれ[5]。平野家の養子となる[5]。少年時より文才に長け、父の『愛媛面影』に序文を書いた[4]。明治期には新聞記者となり、一時期は官吏(農商務省勤務、石川県珠洲郡長など)を務めている[4]。1925年(大正14年)死去[4]。
半井家の医業は、今治藩医の同僚であった村上又玄の三男・晋一を養子に迎えて継承させた[5]。
脚注
編集注釈
編集- ^ 「元義」とも[1]。
- ^ 52歳の時に改名[2]。
- ^ 今治藩医半井家は、半井瑞策の子・半井元成(安立軒)の子孫である半井玄賢が松平定基に仕えたことにはじまる[6]。
- ^ 『愛媛県史 人物』では梧庵の兄を「天章」とし、「文久3年23歳で病死した」とあるが[4]、文久3年(1863年)没では梧庵との関係に齟齬が生じる。梧庵の長男「元章」が文久3年(1863年)に23歳で没していることとの混同が疑われる。
- ^ 荻野元凱に医学を学んだと記述されることもあるが[5][7][4]、元凱は文化3年(1806年)に没している[8]。
- ^ 1873年(明治6年)、石鉄県と神山県が合併して成立した県に「愛媛県」と称することとなった[13]。県名選定の詳細な過程は不明であるが[14]、神名をもとにした「愛媛」が王政復古の志向に適したためと見なされる[14]。
- ^ 広島や尾道など周辺地域の歌人も含む[2]。
出典
編集- ^ a b c d e f g h i j k l “半井梧庵”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2023年8月6日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r “七 今治藩の和歌”. 愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行). 2023年8月6日閲覧。
- ^ a b c “愛媛面影”. 文化遺産オンライン. 2023年8月6日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p “な”. 愛媛県史 人 物(平成元年2月28日発行). 2023年8月6日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z “二 医師と医育”. 愛媛県史 社会経済6 社 会(昭和62年3月31日発行). 2023年8月6日閲覧。
- ^ 石野瑛 1937, pp. 329–330.
- ^ a b c d e “第三節 今治藩の洋学”. 愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行). 2023年8月6日閲覧。
- ^ a b “荻野元凱”. 朝日日本歴史人物事典. 2023年8月6日閲覧。
- ^ a b “荻野元凱”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2023年8月6日閲覧。
- ^ a b c “一 明治前期”. 愛媛県史 人 物(平成元年2月28日発行). 2023年8月6日閲覧。
- ^ “一 地誌”. 愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行). 2023年8月6日閲覧。
- ^ a b c “調査・研究 えひめの歴史文化モノ語り 第47回 伊予国全域網羅の地誌「愛媛面影」”. 愛媛県歴史文化博物館 (2019年6月14日). 2023年8月6日閲覧。
- ^ “一 愛媛県の成立”. 愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行). 2023年8月6日閲覧。
- ^ a b “(2)愛媛の「姫」づくり”. 愛媛の技と匠(平成9年度). 2023年8月6日閲覧。
- ^ a b “国際博物館の日に学芸員によるギャラリートーク(半井梧菴企画展)”. 今治城スタッフブログ (2019年5月13日). 2023年8月6日閲覧。
- ^ “藤堂高虎が築城した、海水を引き入れる特異な構造「今治城」(愛媛県今治市) 日本三大水城のひとつ〈古写真で見る失われた名城〉”. 男の隠れ家デジタル. 三栄 (2020年11月7日). 2023年8月6日閲覧。
- ^ 香原斗志 (2022年9月24日). “<城、その「美しさ」の背景>第16回「今治城」 シンプルで堅固、「徳川の城」の標準形”. 美術展ナビ. 2023年8月6日閲覧。
- ^ “愛媛面影”. 日本歴史地名大系. 2023年8月6日閲覧。
参考文献
編集- 石野瑛「大医和気・半井家系の研究」『中外医事新報』第1247号、1937年 。
関連文献
編集- 秋山英一『半井梧菴伝』(半井梧庵伝刊行会、1957年)
- 井上淳「半井梧菴の写真術に関する一考察」『研究紀要』 12巻、愛媛県歴史文化博物館、2007年3月31日。 NCID AN10552543 。
外部リンク
編集- 半井忠見 《明治十二年明治天皇御下命「人物写真帖」『神官僧侶』(Ⅱ-06)》のうち - 宮内庁三の丸尚蔵館
- 愛媛面影 - 文化遺産オンライン