井上不鳴
井上 不鳴(いのうえ ふめい、1812年(文化9年) - 1892年(明治25年)1月4日)は、江戸時代の医師。徳島藩医。淡路国出身。長男は翻訳家の井上勤[1]。
生涯
編集銃隊長・前羽信近の子として淡路国津名郡洲本(現在の兵庫県洲本市)で生まれ、後に徳島藩医・井上玄眞の嗣子となる[2]。
1828年(文政12年)、18歳で京都に留学し[疑問点 ]、頼山陽の友人である蘭医・小石元瑞のもとで医術を学び、頼山陽から漢詩文を学んだ[2]。1832年(天保3年)、家督相続し、1840年(天保11年)、徳島藩主・蜂須賀斉昌に従って江戸に上る[3]。同年、前川町中洲(現在の徳島市中洲町)に住み、「不鳴」(なかず)と号した[2]。
1846年(弘化3年)に長崎に遊学し、西洋医学の種痘術と産科を学んで帰国。1849年(嘉永2年)より徳島藩内の各地で種痘を行い、四国における初めての種痘とされている。また不鳴による種痘を施した人数は1万人に近いと伝わる[2]。
1859年(安政6年)、徳島藩主・蜂須賀斉裕に従って江戸へ上り、横浜でフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトと対面した。1860年(安政7年)、藩命によって九州各藩の産業を視察し、農業・水利・製塩等の産業開発に尽力した後、1869年(明治2年)に致仕し、隠居した[2]。
1870年(明治3年)、徳島医学校一等助教に任命され、1882年(明治15年)、71歳で編集役兼女学校御用係となる[2]。