亀の前

日本の鎌倉時代の女性、征夷大将軍・源頼朝の愛妾

亀の前(かめのまえ、生没年不詳)は平安時代末期から鎌倉時代初期の女性。良橋太郎入道の娘。源頼朝愛妾[注釈 1]

人物

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鎌倉時代に成立した『吾妻鏡』によると、亀の前は頼朝の伊豆国での流人暮らしの頃から仕えており、容貌すぐれて柔和な性格で気に入られ、頼朝は寿永元年(1182年)の春頃から密かに亀の前を鎌倉に呼び寄せて寵愛していた。

頼朝の正室・北条政子が万寿(後の源頼家)を妊娠中の寿永元年(1182年)6月、日を追って寵愛が増した頼朝は亀の前を小坪逗子市)の中原光家の宅に呼び寄せる。外聞を憚って居拠を遠くに構えたという[1]

その後、頼朝は亀の前を飯島(逗子市)の伏見広綱の宅へ移して寵愛を続けた。8月12日に出産した後、この事を継母の牧の方から知らされた政子は激怒し、11月10日、牧の方の兄・牧宗親に命じて広綱宅を破壊する後妻打ち(うわなりうち)を行い[注釈 2]、大いに恥辱を与えた[2]。亀の前は広綱に連れられ、命からがら鐙摺(葉山町)の大多和義久の宅へ逃れた[3]

11月12日、怒った頼朝は遊興にことよせて鐙摺に出向き、牧宗親を呼び出して叱責した。宗親は顔を地にこすりつけて平伏したが、怒りの収まらない頼朝は自ら宗親のを切って辱め、宗親は泣いて逃亡した。これを知った政子の父・北条時政は義兄である宗親への仕打ちに怒り、一族を率いて伊豆国へ立ち退いてしまう騒動に発展した[4]

12月10日、亀の前は小坪の中原光家の宅へ移された。亀の前は政子の嫉妬をひどく恐れたが、頼朝の寵愛は深まった。16日、政子の怒りが収まらず、伏見広綱は遠江国流罪となった。

この騒動の顛末がどうなったかは、『吾妻鏡』の寿永2年(1183年)が欠文のため追うことができない。亀の前のその後も不明である[注釈 3]

関連作品

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テレビドラマ

脚注

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注釈

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  1. ^ 吾妻鏡』文中の月日は全て旧暦
  2. ^ その背景としては、政子の嫉妬深さだけではなく、伊豆の小土豪に過ぎない北条氏の出である政子は貴種である頼朝の正室としてはあまりに出自が低く、その地位は必ずしも安定したものではなかったためと考えられる。
  3. ^ 岩間尹の『実録三浦党』では、大椿寺の開基とされる妙悟尼について、亀の前と全く同じ話が妙悟尼の話として紹介されている。妙悟尼はもともと頼朝の愛妾(そばめ)で名前は妙子といい、後妻打ちの後は三崎の椿御所に移り住み頼朝の寵愛を受け続け、頼朝の死後は出家して妙悟尼となり、椿御所も大椿寺に建て替えて頼朝の菩提を弔ったとされている(松浦豊『三浦半島の史跡と伝説』)。なお『新編相模風土記稿』には「法名大椿寺法円妙悟尼、寛喜二年(1230年)正月廿五日逝去す、宮川村に墓あり、寺記に妙悟尼は頼朝の室なりと云ふ、頼朝の夫人は政子にて事実卒年等も符合せず、こは全く鎌倉の侍女にて、後剃髪し此地に住せしならん」と記載されている。

出典

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  1. ^ 龍粛・訳注『吾妻鏡(一)』岩波文庫、1996年、P.101頁。 
  2. ^ 山本みなみ『史伝 北条義時』小学館、2021年、P83
  3. ^ 龍粛・訳注『吾妻鏡(一)』岩波文庫、1996年、P.107頁。 
  4. ^ 龍粛・訳注『吾妻鏡(一)』岩波文庫、1996年、P.108頁。 

参考文献

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関連項目

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