下目黒
下目黒(しもめぐろ)は、東京都目黒区の地名。現行行政地名は下目黒一丁目から下目黒六丁目。郵便番号は153-0064[3]。
下目黒 | |
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権之助坂(目黒通り) | |
北緯35度37分38.8秒 東経139度42分32.72秒 / 北緯35.627444度 東経139.7090889度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 東京都 |
特別区 | 目黒区 |
面積 | |
• 合計 | 0.9679 km2 |
人口 | |
• 合計 | 21,676人 |
• 密度 | 22,000人/km2 |
等時帯 | UTC+9 (日本標準時) |
郵便番号 |
153-0064[3] |
市外局番 | 03[4] |
ナンバープレート | 品川 |
地理
編集目黒区東部地区に属する[5]。北で目黒一・二・三・四丁目、東で品川区上大崎四丁目、南で品川区西五反田三・四丁目、南西で品川区小山台一・二丁目、西で目黒本町一丁目、北西で中町一丁目と接する。町域の東部には平安時代前期の創建とされる瀧泉寺(目黒不動)があり、毎月28日の縁日には多くの人出で賑わいを見せる。
一丁目と三丁目は坂が多く、中でも行人坂は都内屈指の急坂である。四半世紀前[いつ?]の冬、凍結した行人坂をはるか下まで滑り落ちて大怪我する歩行者が続出することがあり、現在では手摺りが取り付けられている。
目黒駅を出発し、坂の町である一丁目を下ると目黒川で、目黒川を越すと平坦な二丁目。山手通りを越すと今度は上りになって三丁目。三丁目の先は四丁目から六丁目まで順に並び、四丁目から六丁目はおおむね平坦である。
河川
編集坂
編集世帯数と人口
編集2021年(令和3年)4月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[2]。
丁目 | 世帯数 | 人口 |
---|---|---|
下目黒一丁目 | 932世帯 | 1,433人 |
下目黒二丁目 | 4,005世帯 | 6,416人 |
下目黒三丁目 | 2,563世帯 | 4,017人 |
下目黒四丁目 | 1,523世帯 | 2,806人 |
下目黒五丁目 | 1,869世帯 | 3,950人 |
下目黒六丁目 | 1,437世帯 | 3,054人 |
計 | 12,329世帯 | 21,676人 |
小・中学校の学区
編集区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[6]。
丁目 | 番地 | 小学校 | 中学校 |
---|---|---|---|
下目黒一丁目 | 全域 | 目黒区立下目黒小学校 | 目黒区立大鳥中学校 |
下目黒二丁目 | 全域 | ||
下目黒三丁目 | 全域 | ||
下目黒四丁目 | 全域 | 目黒区立不動小学校 | |
下目黒五丁目 | 全域 | ||
下目黒六丁目 | 全域 |
地価
編集住宅地の地価は、2021年(令和3年)1月1日の公示地価によれば、下目黒3−5−22の地点で73.7万円/m2となっている[7]。
歴史
編集江戸時代の下目黒は下目黒村を形成し、米・麦・菜・タケノコなどを栽培する普通の農村であったが、下目黒村でも一部、大鳥神社や目黒不動(瀧泉寺)を中心とする寺社群は江戸町民が多く参詣する門前町を形成し茶屋・料理屋・土産物屋で繁盛していた。これらを訪れる目黒詣では江戸市民の四季折々の楽しみとして賑わい、行人坂や権之助坂は参詣及び下目黒村の農産物を運ぶ道として交通が多かった[8]。
目黒一帯は江戸時代から明治にかけてタケノコの名産地として知られていた。目黒不動の門前の数軒の茶屋ではタケノコ飯が名物として、筍の旬にはこれが目当てで参詣する人が多かったとされる[9]。行人坂から目黒川を目黒太鼓橋で渡り、門前まで至る1kmほどの道の両側には、タケノコ飯の他にアワ餅や飴などの店が並んでいた[10]。
門前町は明治時代には行楽地から花街に変貌し、五百羅漢寺と成就院(蛸薬師)の間には多くの料亭があった。大正時代半ばからは市街地化が急速に進んだ[10]。
地名の由来
編集下目黒の地名は旧来の下目黒村に由来する。「目黒」の地名の由来は諸説あり定かでない。瀧泉寺に祀られる不動明王に由来するともいう。
河川
編集目黒川の支流である羅漢寺川が下目黒を西から東に横断していたが、1960年代後半から1980年代半ばにかけて暗渠化された[10]。また、羅漢寺川の支流である
目黒花壇・苔香園
編集現在の下目黒四丁目の南部に存在した、入谷川の水を利用した[10]庭園。1902年(明治35年)頃に開園し、1920年(大正9年)頃に閉園した。明治時代には向島百花園と並ぶ野趣あふれる庭園として知られていた。
目黒競馬場
編集現在の下目黒四丁目~六丁目付近に存在した競馬場。1907年(明治40年)開場、宅地化の波に押され1933年(昭和8年)閉場。その役割は現在の東京競馬場(府中市)に引き継がれている。
目黒通りを走る東急バス「元競馬場前」停留所近くには、目黒競馬場跡を示す戦前の大種牡馬であるトウルヌソルの銅像が建てられている。
大円寺
編集行人坂の途中にある大円寺は見るべき仏像の多い古刹だが、明和九年(1772年)の江戸の大火事・明和大火の火元になったことで知られる寺である。幕末に再建を許された大円寺は現在は都内唯一の石造り五百羅漢で知られ、五百羅漢は都の文化財になっている。本尊の釈迦如来来立像は国の重要文化財である[11]。
柳通り
編集下目黒二丁目を南北に貫く柳通りは、戦前に東京市が市電路線を延長するために買収した軌道敷用地であった。1944年(昭和19年)に既存の路線自体が廃止になったために戦後、そのまま道路になった[12]。
町名の変遷
編集実施後 | 実施年月日 | 実施前(各町名ともその一部) |
---|---|---|
下目黒一丁目 | 1967年3月1日 | 下目黒1〜4 |
下目黒二丁目 | 下目黒1〜4 | |
下目黒三丁目 | 下目黒1〜4 | |
下目黒四丁目 | 下目黒1〜4 | |
下目黒五丁目 | 下目黒1〜4 | |
下目黒六丁目 | 下目黒1〜4 |
交通
編集鉄道
編集地内に駅は置かれていないが以下の駅が利用できる。
バス
編集- 東急バス
- 黒01(目黒駅前-清水・サレジオ教会-大岡山小学校前)
- 黒02(目黒駅-清水-二子玉川/等々力七丁目)
- 東98(等々力操車所-目黒駅前・東京タワー - 東京駅南口)
- 渋41(渋谷駅-大鳥神社前-大井町)
- 渋72(渋谷駅東口-目黒不動尊-五反田)- 毎月28日は縁日ダイヤ
道路・橋梁
編集- 道路
- 東京都道312号白金台町等々力線(目黒通り)
- 東京都道317号環状六号線(山手通り)
- 橋梁
- 目黒新橋
施設
編集在外公館
編集- ネパール大使館
- パプアニューギニア大使館
- タイ王国大使館駐在武官事務所
官公庁
編集- 目黒消防署
教育
編集福祉
編集- 目黒区立下目黒福祉工房(就労継続支援B型事業所)
公園(主なもの)
編集- 林試の森公園
- 不動公園
文化・スポーツ
編集企業・商業施設
編集- アマゾンジャパン本社
- ホリプロ本社
- パスコ本社
- OGGI(株式会社オールハーツ・カンパニー)本社
- メルク本社
- 紀伊国屋書店本社
- 大東カカオ本社
- 目黒雅叙園・アルコタワー
- イメージスタジオ109 本社・目黒スタジオ
- ニトリ目黒通り店
- 目黒エンペラー
- ピカソ 目黒駅前店
寺社・教会
編集- 大鳥神社
- 天台宗瀧泉寺(目黒不動)
- 浄土宗系単立五百羅漢寺
- 黄檗宗海福寺
- 天台宗成就院(蛸薬師)
- 天台宗大円寺
- 天台宗大聖院
- 浄土宗蟠龍寺
- 金光教下目黒教会
- 天理教本敞分教会・錦橋分教会
- ロシア正教会聖アレクサンドル・ネフスキー教会
かつて存在した施設
編集- 東京学園高等学校
- 目黒区立第三中学校・目黒区立第四中学校(現・目黒区立大鳥中学校)
- ウズベキスタン大使館
- キルギス大使館
- ジブチ共和国大使館
- 東急バス不動前営業所
史跡
編集脚注
編集- ^ “区勢要覧 - 2.人口と世帯”. 目黒区 (2018年3月31日). 2021年4月14日閲覧。
- ^ a b “町丁別世帯数および人口表”. 目黒区 (2021年4月1日). 2021年4月14日閲覧。
- ^ a b “郵便番号”. 日本郵便. 2021年4月14日閲覧。
- ^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2021年4月14日閲覧。
- ^ “地区・住区区域 中目黒、三田、目黒、下目黒、中町、五本木、祐天寺、中央町、目黒本町”. 目黒区 (2013年10月1日). 2021年5月2日閲覧。
- ^ “区立学校学区域”. 目黒区 (2018年8月25日). 2021年4月14日閲覧。
- ^ 国土交通省地価公示・都道府県地価調査
- ^ 山本和夫「目黒区史跡散歩」学生社、pp.65-67
- ^ JA東京中央会企画発行、農山漁村文化協会編集『江戸東京農業名所めぐり』2002年、pp.136-137
- ^ a b c d 本田創『水のない川 暗渠でたどる東京案内 Kindle版』山川出版社、2022年、48-61頁。
- ^ 山本和夫「目黒区史跡散歩」学生社、p.68
- ^ “目黒のみち 電車道”. 目黒区 (2014年1月31日). 2023年11月1日閲覧。
- ^ 過去には多数の直営施設があったが、2020年現在は当地と福岡県福岡市早良区の「ヤマハ西新センター」のみとなった。
- ^ ヤマハ目黒センター - ヤマハ音楽振興会、2020年5月19日閲覧。