三浦義武
三浦 義武(みうら よしたけ、1899年 - 1980年2月8日)は、日本の喫茶店店主、政治家である。缶コーヒーの発明者[1]。息子は小説家の三浦浩。
来歴・人物
編集1899年(明治32年)、島根県那賀郡井野村(現・浜田市)で豪農の家に生まれる。浜田中学校卒業後、上京して早稲田大学法科に進学。在学中は茶に親しみ、卒業後は東京郊外で茶の販売店を営む。昭和に入り、日本橋の白木屋でコーヒー豆を挽き売りするようになる。三浦のコーヒー狂ぶりは相当なもので、研究のために銀座や丸の内の有名コーヒー店を飲み歩き、中毒のようになって倒れたこともままあったという。研鑽を積み、ネルを使った独自の手法で濃厚で香り高いコーヒーを作り出した。2枚重ねたネル袋にコーヒー粉を大量に入れて、常温の水を少しずつかけて撹拌し、最後に仕上げとして熱湯を注ぐ方法で、「カフェ・ラール」と称された[2]。そのため「ネルドリップコーヒーを極めた男」とも呼ばれる。
1935年(昭和10年)から5年間、土曜日の午後に日本橋白木屋デパートで「三浦義武のコーヒーを楽しむ会」を開催して評判となった。会費1円でコーヒー飲み放題、サンドイッチ食べ放題で、菊池寛、藤田嗣治、岸田國士、山田耕筰といった文化人も常連だった。日中戦争の激化から米英との対立に向かう軍国体制下で「敵国の飲み物を普及させている」と批判され[2]、役人による中止命令を受け、1942年(昭和17年)に妻子と共に井野村へ帰る。
太平洋戦争終戦直前の1945年(昭和20年)3月12日に井野村長に就任。戦後、第22回衆議院議員総選挙に国民協同党から出馬するも落選し、1947年(昭和22年)の第2次公職追放で井野村長を退任。農地改革による豪農・地主への打撃もあり、苦難の時代となった。
1950年(昭和25年)にコーヒー豆の輸入が再開されたことを受け、翌年から紺屋町に「ヨシタケコーヒー店」を開店。かつてのように研究に没頭する生活を送る。1963年(昭和38年)から缶コーヒーの開発に乗り出した。東洋製缶の協力を得て腐食しにくい缶を開発してもらい、試作品を2年後に開封して、低温殺菌して詰めたコーヒーの香り・味が劣化していないことを確認した[2]。こうして1965年(昭和40年)9月14日、世界初の缶コーヒー「ミラ・コーヒー」(「ミウラ」と「ミラクル」によるネーミングとされる)を日本橋三越本店で発売。友人の司馬遼太郎は「絵画において富岡鉄斎、陶芸において柿右衛門」と喩えて賞賛。作家の小島政二郎も『日本経済新聞』紙上で、香り、甘み、酸味、苦味と美しさが(缶ではない)本物に劣らないと評した[2]。
ミラ・コーヒーの評価は高かったが資金不足に陥り、1968年(昭和43年)に製造を中止した。上島珈琲が缶のコーヒー入り乳飲料「コーヒーオリジナル」を発売するのは翌年の事である。
その後はヨシタケコーヒー店の一店主として研究と味わいの日々を送った。同店は1978年(昭和53年)に閉店。三浦は1980年(昭和55年)に死去した。墓所は生家跡の裏の竹林と八王子霊園にある。
「ヨシタケコーヒー」復元
編集三浦は「カフェ・ラール」の淹れ方について簡単なメモを遺していたのみであった。津和野と同じ島根県の安来市にある加納美術館館長の神英雄が、飲んだことがある体験者や元店員に聞き取りから淹れ方を復元。浜田市が「ヨシタケコーヒー」を出す喫茶店の認証制度を設けている[3]。
脚注
編集出典
編集- ^ “缶コーヒー開発の男性を顕彰”. 中国新聞 (中国新聞社). (2014年11月12日). オリジナルの2014年11月29日時点におけるアーカイブ。 2014年11月16日閲覧。
- ^ a b c d “神英雄:コーヒー「のぼせ者」の味◇うまさ��探究した三浦義武の1杯の復元に情熱注ぐ◇”. 日本経済新聞. (2018年4月25日) 2018年10月13日閲覧。
- ^ “ヨシタケコーヒー~極上のネルドリップコーヒー~”. 浜田市. 2018年10月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年10月13日閲覧。
参考文献
編集- 神英雄「三浦義武-コーヒーに人生を捧げた石見人」『コーヒー文化研究』第19号、日本コーヒー文化学会、2012年12月、ISSN 18824617。
- 神英雄『妙好人と石見人の生き方』自照社出版、2013年。ISBN 9784903858890。
- 神英雄『石見と安芸の妙好人に出遇う―人生の旅人たち』自照社出版、2015年。ISBN 9784865660128。
- 神英雄. “美のコーヒーをつくった石見人 三浦義武”. 山陰中央新報(2015年7月17日から2016年1月22日まで隔週連載)
- 神英雄『三浦義武 缶コーヒー誕生物語』松籟社、2017年。ISBN 9784879843593。