レイホール・レターマン・ラニガン・レーシング
レイホール・レターマン・ラニガン・レーシング (Rahal Letterman Lanigan Racing, RLL) は、アメリカ合衆国のレーシングチーム。現在はインディカー・シリーズおよびIMSA スポーツカー選手権に参戦している。チームの拠点はオハイオ州ヒラード。チーム名の由来は1986年のインディ500勝者であるボビー・レイホールと、テレビのトークショー司会者、コメディアンであるデイヴィッド・レターマン、そして実業家のマイク・ラニガンの3名の経営者の名前から採られている。
CART
編集1991年のCARTシーズン終了後、ボビー・レイホールはギャレス=クラコ・レーシングを離脱した。レイホールはコンスタントに上位でフィニッシュしたものの、1989年から1991年シーズンまでで2勝しか挙げることができなかった。同様にダニー・サリバンはアルファロメオのエンジンを積んで惨憺たるシーズンを終えたパトリック・レーシングを離脱した。サリバンはギャレス・レーシングに加入し、レイホールがパトリック・レーシングに加入、2人はそれぞれのチームを結果的に交換することとなった。しかしながら1991年の冬にパトリック・レーシングはアルファ・ロメオ製エンジンの財政および法的な問題のため、活動を停止した。法的な問題とは、当時パトリックの搭載したアルファ・ロメオ製エンジンはシボレーのインディカー用エンジンの部品を流用していたという噂が表面化[1]したためである。
1991年12月頃、レイホールと新たなパートナーのカール・ホーガンは、その問題を抱えていたパトリック・レーシングの資産を取得する。新たなチームはレイホール・ホーガン・レーシング (Rahal-Hogan Racing) の名称で活動を始めた。オーナードライバーのボビー・レイホールは晴れて搭載が可能となったシボレー・ローラをドライブし、チームは活動初年度の1992年にシリーズタイトルを獲得した。
1992年末にレイホール・ホーガン・レーシングは、レイホールがかつて所属したトゥルースポーツ・レーシングチームを吸収した。チームは活動拠点をインディアナポリスから、古くからトゥルースポーツの施設があるヒラードに移転した。同時にチームは開発を初めて2年になるトゥルースポーツの自製シャシー計画を継承した。レイホールは翌年には新たなレイホール・ホーガン製シャシーを導入するを意志を示すために、1993年のシーズンにはアップデートされたトゥルースポーツ製シャシーを改良したものを”レイホール・ホーガン”シャシーと改名して参戦した。第3戦ロングビーチで2位を獲得したが、「スーパー・スピードウェイ(1周の距離が長いオーバルトラック)」での競争力がないことが判明し、その成功は短命なものに終わった。インディ500で予選を通過できず、チームは翌週にはより競争力のあるローラ製シャシーに変更した。結局独自シャシーの開発プログラムは放棄された。
1994年、レイホール・ホーガンはホンダ製HRXインディV-8エンジンを用いて参戦することを発表したが、インディ500ではホンダ・エンジンに競争力が無いことが判明し、レイホールは2年連続でチームが予選落ちするという危険を避けるため、ホンダエンジンを使用しないことを決断。チームはインディ500で2台のペンスキー・イルモアを借り受け参戦、レイホールがインディ500を3位でフィニッシュした。インディ500後はホンダエンジンに戻したがシーズン通算で期待外れのシリーズ10位という結果に終わり、結局この年限りでホンダエンジンの使用を終了した。1996年にホーガンと袂を分かち[2]、チームはチーム・レイホール (Team Rahal) と改名した。続く数年にわたって、チームはブライアン・ハータ、マックス・パピス、ケニー・ブラック、ミチェル・ジョルディンJr.を起用し、2001年シーズンにはブラックがシーズン2位を記録した。レイホール自身は1998年をもってドライバーを引退した。
1996年初めに、レイホールと長年の友人であり��熱心なレースファンであったデイヴィッド・レターマンがチーム経営に参画した。
この間、レイホールは2000年9月のF1のフォードワークスチームのジャガー・レーシング F1チームのマネージング・ディレクター就任から、翌年の8月まで、チームCEO及びチーム代表を務めているが、フォード副社長のニール・レスラーからの要請によるものだった。
インディカー・シリーズ
編集チームは2004年5月に名称をレイホール・レターマン・レーシング (Rahal Letterman Racing) に変更した。2005年シーズンは2004年のインディ500勝者であるバディ・ライスに加えてヴィトール・メイラ、ダニカ・パトリックの3名が起用された。
2009年はスポンサーが集まらずフル参戦から撤退しインディ500などのスポット参戦に専念、この状態が2011年まで続いた。
2011年には実業家のマイク・ラニガンが経営に参画し、チーム名もレイホール・レターマン・ラニガン・レーシングに改称された。
2012年に再びフル参戦を表明、KVレーシング・テクノロジーに所属していた佐藤琢磨を起用した。インディ500ではスポットでミシェル・ジョルダインJr.を起用した。
2013年から2017年はチームオーナーであるボビー・レイホールの息子であるグラハム・レイホールのワンドライバー制でインディカー・シリーズに参戦していた。2018年シーズンは再び佐藤琢磨がアンドレッティ・オートスポーツから移籍という形でチームに復帰し、レイホールとの2ドライバー制で参戦する。
2019年〜2021年もレイホールと佐藤が残留し、2台体制で参戦する。また、2019年はジョーダン・キングが、2020年はスペンサー・ピゴットが、2021年はサンティノ・フェルッチがインディ500のみ参戦する。2020年のインディ500においては佐藤が自身2度目の優勝を果たし、レイホールも終盤までトップ争いを繰り広げて3位という快挙を成し遂げた。
スポーツカーレース
編集2009年からBMW・M3でアメリカン・ル・マン・シリーズ(ALMS)に参戦。同シリーズがIMSA スポーツカー選手権に改組されてからもBMWとの関係を継続しており、事実上BMWのセミワークス格のチームとなっている。2022年からはBMW・M4 GT3で同シリーズのGTD Proクラスに参戦した。また2023年から導入されるLMDh規定のGTPクラスで、BMWが投入する「BMW・M Hybrid V8」のチーム運営を担う[3]。
所属ドライバー
編集CART/チャンプカー
編集年 | ドライバー | |
---|---|---|
1992 | ボビー・レイホール | |
1993 | ボビー・レイホール | マイク・グロフ |
1994 | ||
1995 | ラウル・ボーセル | |
1996 | ブライアン・ハータ | |
1997 | ||
1998 | ||
1999 | マックス・パピス | |
2000 | ケニー・ブラック | |
2001 | ||
2002 | ジミー・バッサー | ミッシェル・ジョルディンJr. |
2003 | ミッシェル・ジョルディンJr. |
IRL/インディカー
編集- ^ 第1戦ホームステッド=マイアミにおいてファイナルプラクティス中の事故により死去。
- ^ ダン・ウェルドンの死亡事故によりレースキャンセルとなった。
参照
編集- ^ 1989年シーズン後に初代パトリ���ク・レーシングは売却され1990年にチップ・ガナッシ・レーシングとなったが、同じ年にアルファロメオエンジンを搭載する別のチームに参画し2代目パトリック・レーシングが誕生していた。初代チームが使用していたシボレーエンジンの保管していた分を2代目チームのアルファロメオエンジンの改良に使用した、という疑惑である。なお2代目チームの売却ののちに、3たび新たなパトリック・レーシングが立ち上げられた。
- ^ ホーガンは別途ホーガン・レーシングを立ち上げ、1999年まで参戦
- ^ BMW、レイホールが2023年開始のLMDhプログラムと来季のGTDプロを運営と発表/IMSA - オートスポーツ・2021年11月14日