ヤシカバレーボール部
ヤシカバレーボール部(ヤシカバレーボールぶ)は、東京都を本拠地に活動していた、ヤシカの女子バレーボールチームである。
ヤシカバレーボール部 | |
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原語表記 | ヤシカバレーボール部 |
ホームタウン | 東京都 |
廃部年 | 1978年 |
所属リーグ | 日本リーグ/実業団リーグ |
チーム所在地 | 東京都 |
体育館所在地 | - |
概要
編集諏訪地方では、1951年に岡谷南高校バレーボール部が全国高校総体男子バレーボールを制するなど昭和20年代からバレーボール熱が盛んで、ヤシカ社内にも、1955年に下諏訪町のヤシカ体育館を本拠地とするバレーボール部が設けられた。初代監督は小浜尚三で、のち岡谷南高校元監督の原敏(1964年東京オリンピック審判員、長野県バレーボール協会長)らが監督を務めた[1][2]。
1960年に中村高校出身者を多数獲得し、東京を本拠地とするヤシカ本社チームを創部した。1961年の国体6人制一般女子の部において、くしくもヤシカ本社チームと諏訪チームが決勝で激突し、2-1で本社チームに凱歌が上がった。
1963年1月には諏訪チームと本社チームが合併し、本拠地を完全に東京とした[3]。所属選手の寮はあったものの、専用体育館は持たずジプシー生活を廃部まで続けた。
1966年8月6日、駒沢屋内球技場で開かれた世界選手権兼アジア大会代表選考会で、当時不敗を誇った強豪チームの日紡貝塚(大阪府)を下し(次節参照)、258試合の公式戦連勝記録を止めたことで一躍注目を集め、翌1967年に創設された日本リーグに参加した。同リーグ強豪の日立(日立武蔵)、ユニチカ(日紡貝塚)と互角の実力を持つ、日本を代表する女子実業団チームの一つとして知られ、1970年に黒鷲旗全日本男女選抜バレーボール大会、1972年に日本リーグをそれぞれ制した。
またバレーボール全日本女子チームにも選手を送り、1964年東京オリンピック(金メダル)では渋木綾乃が、1968年メキシコオリンピック(銀メダル)では浜恵子が、1972年ミュンヘンオリンピック(同)では浜と飯田高子が参加。1976年モントリオール五輪では飯田が主将を務めて優勝し、金メダルを獲得した。初めて日本開催となった1967年世界選手権ではヤシカ中心のチームで金メダルを獲得した。
1977年3月に、日本リーグで5位となり、東洋紡守口との入替戦にも敗れ実業団リーグに転落する。翌年実業団リーグ2位となるも、入替戦で富士フイルムに敗北を喫し、日本リーグ復帰はならなかった。ヤシカの経営破綻後、バレーボール部は経営再建の一環として1978年5月に廃部。同月、大沢長蔵部長(当時)と13人の所属選手は新設された日本電気の女子バレーボール部(現・NECレッドロケッツ)に移籍し[4]、ヤシカ23年間の歩みに幕を降ろした。
成績
編集259連勝を阻止した対ニチボー貝塚戦
編集第5回世界選手権兼第5回アジア大会全日本代表選手選考会 第3日
1966年8月6日 | |||
ヤシカ | 3 - 2 (2-15) (15-12) (15-10) (6-15) (15-10) |
ニチボー貝塚 | 駒沢屋内球技場 |
ヤシカ最後の試合、対ユニチカ戦
編集第27回都市対抗バレー 2回戦
1978年4月30日 | |||
ヤシカ | 0 - 3 (8-15) (4-15) (8-15) |
ユニチカ | 大阪府立体育館 |
主な成績
編集- 日本リーグ
- 優勝 1回 - 1972年度
- 準優勝 4回 - 1967年度、1968年度、1969年度、1971年度
- 都市対抗バレー(現黒鷲旗大会)
- 優勝 1回 - 1970年
- 準優勝 6回 - 1961年(諏訪チーム)、1967年、1969年、1971年、1973-74年
- 優勝 2回(1969年、1972年)
- 準優勝 6回(1961-1962年、1966-1967年、1970年、1974年)
- 優勝 1回 - 1961年(本社チーム、6人制)
- 準優勝 3回 - 1961年(諏訪チーム)、1961年(本社チーム、9人制)、1964年
年度別成績
編集大会名 | 順位 | 参加チーム数 | 試合数 | 勝 | 敗 | 勝率 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|
日本リーグ | 第1回 (1967/68) | 準優勝 | 6チーム | 10 | 8 | 2 | 0.800 |
第2回 (1968/69) | 準優勝 | 6チーム | 10 | 7 | 3 | 0.700 | |
第3回 (1969/70) | 準優勝 | 6チーム | 10 | 8 | 2 | 0.800 | |
第4回 (1970/71) | 3位 | 6チーム | 10 | 6 | 4 | 0.600 | |
第5回 (1971/72) | 準優勝 | 6チーム | 10 | 9 | 1 | 0.900 | |
第6回 (1972/73) | 優勝 | 6チーム | 10 | 9 | 1 | 0.900 | |
第7回 (1973/74) | 3位 | 6チーム | 10 | 5 | 5 | 0.500 | |
第8回 (1974/75) | 3位 | 6チーム | 10 | 6 | 4 | 0.600 | |
第9回 (1975/76) | 4位 | 6チーム | 10 | 2 | 8 | 0.200 | |
第10回 (1976/77) | 5位 | 6チーム | 10 | 3 | 7 | 0.300 | |
実業団リーグ | 第9回 (1977/78) | 2位 | 6チーム | 10 | 8 | 2 | 0.800 |
選手・スタッフ
編集廃部年度の所属選手・スタッフは次の通り[5]。
選手
編集背番号 | 名前 | 年齢 | 国籍 | Position | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
1 | 千葉泰子 | 24 | 日本 | セッター | 主将 |
2 | 滑川玉江 | 24 | 日本 | ライト | |
3 | 吉永美保子 | 24 | 日本 | レフト | |
4 | 北園いち子 | 24 | 日本 | レフト | |
5 | 若井富子 | 21 | 日本 | センター | |
6 | 川合澄子 | 21 | 日本 | センター | |
7 | 福島美智子 | 19 | 日本 | レフト | |
8 | 渡辺恵子 | 20 | 日本 | ライト | |
9 | 松尾加代子 | 20 | 日本 | センター | |
10 | 原口美奈子 | 20 | 日本 | ||
11 | 川畑道子 | 20 | 日本 | レシーバー | マネージャー兼任 |
12 | 江頭豊子 | 19 | 日本 | センター | |
13 | 笹原和子 | 19 | 日本 | ピンチサーバー |
スタッフ
編集役職 | 名前 | 国籍 | 備考 |
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部長 | 大沢長蔵 | 日本 | |
監督 | 清水貞美 | 日本 | |
コーチ | 岩原豊子 | 日本 | |
マネージャー | 川畑道子 | 日本 | 選手兼任 |
主な在籍者
編集脚注
編集参考文献
編集- 月刊バレーボール 1978年7月号 132ページ - ちーむ今昔
- 月刊バレーボール 1978年6月号 80-81ページ - 名門ヤシカ"解散劇"の波紋