トマス・ヤング

イギリスの物理学者(1773-1829)

トマス・ヤングThomas Young, 1773年6月13日 - 1829年5月10日[1])は、イギリス物理学者

トマス・ヤング
1802年の講義の図版、1807年出版
「自然哲学の数学的要素」(Mathematical elements of natural philosophy

生涯

編集

1792年ロンドン医学の勉強をし、1794年エディンバラからゲッティンゲンへ移って、1796年に医学の学位を得た。1800年にロンドンで医師を開業する。

1794年王立協会フェローに選出される[2]1801年王立研究所の自然学の教授になり、医学の面では乱視や色の知覚などの研究をした(ヤング=ヘルムホルツの三色説)。また視覚の研究から光学の研究にむかい、光の干渉現象を再発見して(ヤングの実験光の波動説を主張した。王立協会より1800年から複数回ベーカリアン・メダルを、1808年にクルーニアン・メダルを受賞し、それぞれにおいて記念講演を行った。

弾性体力学の基本定数ヤング率に名前を残している。ほかにエネルギー (energy) という用語を最初に用い、その概念を導入した。

音楽では、鍵盤楽器調律法のひとつであるヤング音律(ヴァロッティ=ヤング音律とも呼ばれる)を1799年に考案し、翌年発表した。これはウェル・テンペラメントの中でも調性の性格がよく表れ、かつ不協和音が最も少ない調律法であり[3]、理想的な音律として評価する専門家もいる[4]。現在でもヴィオラ・ダ・ガンバのフレッティングが容易なためヴァロッティ音律とならんでバロックアンサンブルで多用されている[5]

またロゼッタ・ストーンなどのエジプトヒエログリフの解読を試みたことでも知られる[6]

業績

編集

光の波動説

編集

ヤング自身の考えでは、彼の多くの業績の中で最も重要なのは、クリスティアーン・ホイヘンスが『光についての論考』(1690年)で述べた光の波動説を確立したことであった。「光は粒子である」というニュートンの光学で表現された見解を否定しなければならなかった。19世紀初頭、ヤングは光の波動説を支持するいくつかの理論的根拠を提示し、この見解を支持する2つの永続的な実証を行った。彼は、波紋水槽で、水の波のコンテキストにおける干渉の考え方を実証した。二重スリット実験の前身であるヤングの干渉実験では、彼は、干渉という光の波としての振る舞いを実証した。

ヤングは1803年11月24日、ロンドン王立協会で、この歴史的な実験について、今では古典となった説明を次のように始めた。

これから述べる実験は、太陽が照っているときはいつでも、誰もが手元に持っている他の装置を使わずに、非常に簡単に繰り返すことができる。[7]

ヤングはその後の論文「物理光学に関する実験と計算」(1804年)で、窓の開口部から出た光線の中に約0.85ミリメートルのカードを置き、カードの影と側面の色の縞模様を観察した実験について述べている。彼は、光線がカードの端に当たらないように細い帯の前または後ろに別のカードを置くと、縞模様が消えることを観察した。これは、光が波で構成されているという主張を裏付けた。

ヤングは、近接したマイクロメートルの溝のペアからの反射、石鹸や油膜からの反射、ニュートンリングからの光の干渉など、数多くの実験を行い、分析した。また、繊維と細長い細片を使用した2つの重要な回折実験も行った。彼は、自然哲学と機械工学に関する講義 (1807年) の中で、光線の中に置かれた物体の影の縞模様を最初に観察したのはフランチェスコ・マリア・グリマルディであるとしている。また、ヤングの研究の多くはその後オーギュスタン・ジャン・フレネルによって発展された。

出典

編集
  1. ^ Thomas Young British physician and physicist Encyclopædia Britannica
  2. ^ "Young; Thomas (1773 - 1829)". Record (英語). The Royal Society. 2011年12月11日閲覧
  3. ^ Fundamentals of Piano Practice_ Pythagorean, Meantone, Equal, and _Well_ Temperaments
  4. ^ Well v.s. Equal Temperament
  5. ^ 野神チェンバロ・オルガン工房
  6. ^ ヤングのエジプト聖刻文字(ヒエログリフ)研究については Egyptian_hieroglyphsを参照のこと。ヤングの聖刻文字研究に対しては、一部の専門家の評価は極めて低い。例えば、イギリス出身の古典学モーリス・ポープ(Maurice Pope)は次のように述べている。「……、ヤングはシャンポリオンの解読の栄誉を自分のものだと主張したのであるが、その解読が正しいものであったとは決して認めなかったからである。実際その正しさを否定したまま死んだのである。(中略)……、彼の名前が忘れられそうになるたびに、無関係な愛国心によって救われなかったなら、彼はとうに忘れられていただろうし、それにふさわしいものなのである。」(モーリス・ポープ(唐須教光訳)『古代文字の世界』講談社学術文庫 1995年)
  7. ^ Young, Thomas (1804). “Bakerian Lecture: Experiments and calculations relative to physical optics”. Philosophical Transactions of the Royal Society 94: 1–2. Bibcode1804RSPT...94....1Y. doi:10.1098/rstl.1804.0001. https://books.google.com/books?id=7AZGAAAAMAAJ&pg=PA1.