鶯飼
鶯飼、鴬飼、うぐひす飼(うぐいすかい)は、中世(12世紀 - 16世紀)期の日本にかつて存在した鶯(ウグイス)を飼育・行商する者(物売)、および飼育する行為である[1][2][3]。
現在は「鳥獣保護管理法」(鳥獣の保護及び管理並びに狩猟の適正化に関する法律、旧・狩猟法)および関連法令で保護されており、民間における捕獲・飼育・販売・輸出は禁止されている[4]。
略歴・概要
編集平安時代(8世紀)、貴族社会で流行した歌合・絵合・貝合等の「物合」の一つに「鶯合」(うぐいすあわせ)があり、飼育したウグイスを持ち寄り、さえずる声の優劣を競うという遊びであるが、このころには産地からウグイスをもたらす人物がいたと考えられる[5][6]。山城国葛野郡と丹波国の境(現在の京都府京都市右京区嵯峨愛宕町)にある山、愛宕山産のウグイスを「愛宕鳥」(あたごどり)、同愛宕郡大原郷(現在の同市左京区大原)産のものを「大原鳥」(おはらどり)と呼ぶ[6]。平家人たちは、愛宕派と大原派に分かれて、どちらが優れているかの議論に明け暮れていたともいわれる[6]。1237年(嘉禎3年)には成立していた『法然上人絵伝』には、「鶯飼ふこと」を戒めている[7]。
室町時代、15世紀前半、世阿弥の次男観世元能が父の芸訓を書き起こした書『申楽談儀』(『世子六十以後申楽談儀』、1430年)では、「清次の定」として、「好色」「博奕」「大酒」と並んで「鶯飼ふこと」を禁じている[8][9]。つまり「鶯合」などに根注してしまっては芸事は務まらない、という戒めである[9]。
15世紀末の1494年(明応3年)に編纂された『三十二番職人歌合』の冒頭には、「いやしき身なる者」として、「鳥刺」とともに「鶯飼」あるいは「うぐひす飼」として紹介され、ウグイスの入った小さな鳥籠を巨大な容器(桶)から取り出して眼の高さに持っている、帯刀した老人の姿が描かれている[3][10]。ウグイスはさえずり、粗末な小袖を着て帯刀しない「鳥刺」も小さな野鳥を手にしつつ、その声に視線を投げている[3][10]。この歌合に載せられた歌は、
- 羽風だに 花のためには あたご鳥 おはら巣立に いかがあはせん
というもので、春に行われる「鶯合」で手許にある「愛宕鳥」を巣立とうとする「大原鳥」にどのように対抗させようか、と歌っている[1][6]。1520年代の京都の光景が描かれているとされる『洛中洛外図屏風』(町田本)にも、三条西殿の門前で行われる「鶯合」と、同家の当主・三条西公条らの姿が描かれている[11]。
「鶯合」は近世、江戸時代(17世紀 - 19世紀)以降にも行われ、「鶯飼」に当たる職能は、同時代には「飼鳥屋」と呼ばれた。近代、明治時代以降は、1873年(明治6年)の「鳥獣猟規則」に始まり、現行の「鳥獣保護法」に至るまで、禁じられる方向となった[4]。
脚注
編集- ^ a b 鶯飼、Yahoo!辞書、2012年9月20日閲覧。
- ^ 鶯、 日外アソシエーツ、エア、2012年9月20日閲覧。
- ^ a b c 小山田ほか、p.142.
- ^ a b “鳥獣の保護及び管理並びに狩猟の適正化に関する法律施行規則(平成十四年環境省令第二十八号)”. e-Gov法令検索. 総務省行政管理局. 2019年12月25日閲覧。
- ^ デジタル大辞泉『鶯合せ』 - コトバンク、2012年9月20日閲覧。
- ^ a b c d 山本、p.133-134.
- ^ 解釈と鑑賞、p.137.
- ^ 論集、p.56.
- ^ a b 芳賀ほか、p.133.
- ^ a b 三十二番職人歌合、早稲田大学図書館、2012年9月20日閲覧。
- ^ 林屋、p.23.
参考文献
編集- 『日本文化史の焦点』、歴史教育シリーズ 1、芳賀登・黒羽清隆、雄山閣出版、1963年
- 『世阿弥芸術論集』、新潮日本古典集成、世阿弥・田中裕、新潮社、1976年9月 ISBN 4106203049
- 『近世風俗図譜 第4巻 洛中洛外2』、林屋辰三郎、小学館、1983年9月22日 ISBN 4095500042
- 『中世職人語彙の研究』、山本唯一、桜楓社、1986年2月 ISBN 427302070X
- 『江戸時代の職人尽彫物絵の研究 - 長崎市松ノ森神社所蔵』、小山田了三・本村猛能・角和博・大塚清吾、東京電機大学出版局、1996年3月 ISBN 4501614307
- 『国文学 解釈と鑑賞』第70巻第1号、至文堂、2005年