趙 統(ちょう とう、拼音: Zhào Tǒng、生没年不詳)、冀州常山国真定県(現河北省正定県)の人。中国三国時代蜀漢の武将。父は趙雲、弟は趙広

趙統
正定県「趙雲廟」趙雲・趙統・趙広の塑像
正定県「趙雲廟」趙雲・趙統・趙広の塑像
蜀漢
虎賁中郎督・行領軍・永昌亭侯
出生 ?(生年不詳)
死去 ?(没年不詳)
拼音 Zhào Tǒng
不詳
主君 劉禅
趙雲
兄弟 趙広(弟)
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事績

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蜀漢を代表する将の一人である趙雲の長子。建興7年(229年)に父が死去した後、その跡を継ぎ、官位は虎賁中郎督中国語版行領軍中国語版にまで昇った[1][注 1]

官職

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『季漢官爵考』三巻(p.32)
(左頁:虎賁中郎督)

正史『三国志』蜀書『趙雲伝』において、趙統の官職は「虎賁中郎督行領軍」と記され、関連書籍などでは「虎賁中郎,督行領軍」と区切り、「虎賁中郎」[2][3][4][5]あるいは「虎賁中郎将[6]、「督行領軍」と解釈することが多い。

張金龍は、「督行領軍」という表現は理解しづらく、「羽林右部督」、「中部督」、「殿中督」などの類似の官職を参考に、「虎賁中郎督,行領軍」と区切るべきと主張し、「虎賁中郎督」は「虎賁の督」または「虎賁中郎将の督」を指すものであり、「行領軍」は虎賁中郎将の下に位置する虎賁中郎督が、領軍の業務を代理していることを意味する、と論じている[7]

代に周廣業が著した『季漢官爵考』三巻においても「虎賁中郎督」とし、虎賁中郎の主な職掌は虎賁(皇帝の親衛隊)の宿衛、つまり皇帝の警護であり、この官職に「督」の字が付いているのは、恐らく兵を指揮する任務も兼ねていたからだろう、と論じている[8]

この官職は蜀漢にのみ設置され、就いたのは趙統ただ一人であり、蜀漢の史料には詳細な記録が残されておらず、そのため官位秩禄などは不明である。

三国志演義

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羅貫中の小説『三国志演義』では第97回で登場。弟の趙広と共に、趙雲の病死を諸葛亮、次いで劉禅に報告。劉禅から虎賁中郎将[9]に任じられ、趙雲の墓守りを命じられる[10]

関連作品

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漫画

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ゲーム

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カードゲーム

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  • 三国殺
    (2008年、中国:Yoka Games(游卡桌游)、日本:株式会社ミント)

脚注

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注釈

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  1. ^ 書籍(ちくま学芸文庫の正史三国志など)の多くは「虎賁中郎、督行領軍」とする[2]。次節の「官職」を参照。

出典

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  1. ^ 『三國志』巻36 趙雲伝 "雲子統嗣,官至虎賁中郎,督行領軍。"
  2. ^ a b 井波 1993, p. 191.
  3. ^ 坂口 2008, p. 349.
  4. ^ 中国の思想 1994, p. 273.
  5. ^ 趙 2019, p. 66.
  6. ^ 渡辺 1990, p. 19.
  7. ^ 張金龍「第五章 蜀漢禁衛武官制度」「第三節 虎賁、三署郎将与羽林、殿中督」「一 虎賁中郎将」『魏晋南北朝禁衛武官制度研究(修訂本)』中国社会科学出版社、2020年。(Kindle版につきページNo.なし)ISBN 9787520370998
  8. ^ 季漢官爵考』三巻 p.32. "「虎賁中郎督」按續志有虎賁中郎,主虎賁宿衛,此加督者,蓋兼督兵故"
  9. ^ 沈 1996, p. 206.
  10. ^ 『三國演義』第97回「討魏国武侯再上表 破曹兵姜維詐献書」
    "正飲酒間,忽報鎮南将軍趙雲長子趙統、次子趙広,来見丞相。孔明大驚,擲盃於地曰:「子龍休矣!」二子入見,拝哭曰:「某父昨夜三更病重而死。」(中略)却説後主思念趙雲昔日之功,祭葬甚厚,封趙統為虎賁中郎将,趙広為牙門将,就令守墳,二人辞謝而去。"

参考文献・関連書籍

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文献

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参考書籍

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  • 渡辺精一『(特別付録)「【正史編】三国志人物事典」歴史群像シリーズ18号 三国志 下巻』学研、1990年。ISBN 4051051552 
  • 陳寿撰、裴松之注 著、井波律子 訳『正史三国志5蜀書』ちくま学芸文庫、1993年。ISBN 4480080457 
  • 中国の思想刊行委員会『三国志全人名事典』徳間書店、1994年。ISBN 4198602042 
  • 沈伯俊、譚良嘯『三国志演義大辞典(日本語版)』潮出版社、1996年。ISBN 9784267012389 
  • 坂口和澄『正史三國志 群雄銘銘傳【増補版】』潮書房光人新社、2008年。ISBN 9784769814047 
  • 趙春陽『完美武将:趙雲』江蘇鳳凰文芸出版社、2019年。ISBN 9787559436634 

関連人物

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