「練馬一家5人殺害事件」の版間の差分
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その後、長女は1983年7月6日までに住職の伯父一家に養女として引き取られ、これまで通っていた大泉学園緑小学校から[[練馬区立練馬小学校]]へ転校することとなり<ref>『中日新聞』1983年7月7日朝刊第12版第一社会面23面「東京の一家惨殺、○○ちゃん再出発 伯父さんの養女に」</ref>、1983年7月11日からは事件発生以来約2週間ぶりに登校を開始した<ref>『中日新聞』1983年7月11日夕刊E版第一社会面7面「一家惨殺 ○○ちゃん2週間ぶり登校 新しい友達よろしくネ」</ref>。長女の養父となった伯父・及び母校の大泉学園緑小には葬儀翌日の1983年7月2日から小学生を中心に日本全国から「友達になろうよ」「頑張ってください」「気を落とさず新しい生活を送ってください」など長女への激励の手紙が多数(1983年7月6日時点で100通以上)寄せられた<ref>『朝日新聞』1983年7月7日東京朝刊第14版第一社会面23面「友だちになろう 遊びにおいで ○○さんに激励相次ぐ 小学生ら手紙百通 級友からは指人形・電話 転校、おじの養女に」</ref>。長女のその後に関して元石神井署巡査部長は2004年に『週刊新潮』の取材に対し「事件後に父方の伯父(父親の実兄)に引き取られたが、ストレスのため中学入学後から頭髪が白くなった。その後は早く自分の家族を持ちたかったためだろうか、高校・専門学校を経て卒業直後に結婚し21歳 - 22歳に子供を出産した」と証言している<ref name="週刊新潮(2004-09-02)"/>。
第一審判決の際、当時中学1年生だった長女は養親となった伯父夫婦とともに判決公判を傍聴し、『読売新聞』1985年12月20日東京夕刊で「伯父夫婦に引き取られたころは1人で外出することを極端に怖がり沈み込んでいたが、最近は事件のことを口にすることもなく、ようやく明るさを取り戻した」と報道した<ref name="読売新聞1985-12-20"/>。一方で控訴審判決(当時17歳・高校2年生)の際は法廷に姿を見せず、このころには『[[毎日新聞]]』1990年1月23日東京夕刊にて「事件のことは話題にしないようにしているという」と報道されている<ref name="毎日新聞1990-01-23"/>。上告審判決を報道した『毎日新聞』1996年11月15日東京朝刊は「(当時23歳の)長女は既に結婚し1歳5か月になる娘(年齢は当時、1995年6月ごろ誕生)がいる。長女は同日も『最後の法廷だから』と傍聴を望んだが育児に追われていたため来れなかった」と報道している<ref name="毎日新聞1996-11-15"/>。
=== 事件現場のその後 ===
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