Miyamoto Yuriko

japanische Schriftstellerin
Dies ist eine alte Version dieser Seite, zuletzt bearbeitet am 16. April 2005 um 12:27 Uhr durch Nameless1978 (Diskussion | Beiträge). Sie kann sich erheblich von der aktuellen Version unterscheiden.
(Unterschied) ← Nächstältere Version | Aktuelle Version (Unterschied) | Nächstjüngere Version → (Unterschied)

Vorlage:文学 宮本 百合子みやもと ゆりこ1899年2月13日 - 1951年1月21日)は、昭和期の小説家評論家。旧姓中条(ちゅうじょう)。本名ユリ。東京都生まれ。日本女子大学英文科中退。17歳の時に『貧しき人々の群』で文壇に登場、天才少女として注目を集め、その後もプロレタリア作家、民主主義文学のリーダーとして活躍した。

経歴

早くから才能が開花

大正期の著名な建築家中条精一郎の長女として生まれ、お茶の水高女在学中から小説を書き始める。日本女子大学英文科予科に入学早々、中条百合子の名で白樺派風の人道主義的な中編『貧しき人々の群』を「中央公論」に発表し、天才少女として注目を集めた。

結婚と離婚

1918年、父と共にアメリカに遊学、翌年コロンビア大学聴講生となり、そこで知り合った15歳年上の古代東洋語研究者荒木茂と結婚。12月に帰国。1924年に離婚。ロシア文学者湯浅芳子と共同生活をおくりながら、破綻した不幸な結婚生活を長編『伸子』にまとめ、近代日本文学の第一級作品とされた。

プロレタリア作家として活動

1927年12月から湯浅と共にソ連へ外遊。西欧旅行などを経て1930年11月帰国。翌月日本プロレタリア作家同盟に加入、プロレタリア文学運動に参加し、1931年日本共産党に入党。翌年党員宮本顕治と結婚した。1933年、スパイ容疑で顕治が検挙される。翌年中条から宮本へ改姓。1937年、筆名を宮本百合子に改める。

逆境の中での活動

獄中の顕治を獄外から支えつつ、戦時中も検挙や執筆禁止などを繰り返し経験しながらも粘り強く文学活動を続け、1945年10月顕治釈放。夫とかわした書簡はのちに『十二年の手紙』として刊行。戦後も社会運動や執筆活動を精力的に取り組み、『風知草』、『播州平野』、『道標』など多くの作品を残し、波乱に満ちた生涯のうちの大部分が小説として自身の手で描き出されている。

外部リンク

Vorlage:生没